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これは純愛であって、純愛の物語ではない。ゲーム『沙耶の唄』ネタバレ感想

なんとなしにAmazonミュージックで曲を聴いていたら、偶然いとうかなこさんの『ガラスのくつ』があるのを見つけました。

いとうかなこさんといえば『STEINS;GATE』などのテーマソングでおなじみの歌手ですが、この『ガラスのくつ』は『沙耶の唄』というゲームのED曲です。



そんな『ガラスのくつ』を聴いていると懐かしくなって、久々にベスト盤の『沙耶の唄』を引っ張り出してプレイしてみました。

今回は、そんな『沙耶の唄』の感想を書きたいと思います。

これは純愛の物語なのか?


「ニトロプラスのゲームで虚淵玄さんの脚本だよ」という言葉で、大方その内容の想像がつく人も多いのではないかと思います。

『沙耶の唄』はクトゥルフ神話などをモチーフにしたいわゆる鬱ゲーなのですが、同時に純愛を描いた作品であるとも言われています。


しかし残念なことに、私はこの作品の主人公とヒロインの恋愛に対して全く感情移入できませんでした。


だからといってクソゲーなのかというと、そうではありません。これは純愛の物語ではないけど、間違いなく純愛が描かれてあります。

一見すると矛盾しているように思えるこの感覚こそが、『沙耶の唄』を純愛たらしめる作品になっているのです。

この物語は、主人公である郁紀(ふみのり)が「臓物や肉塊にまみれた場所でおぞましい化け物たちと会話する」というシーンから始まります。

まずその時点で、普通の人間には理解不能な光景です。しかしこの訳のわからない状況こそが、郁紀の置かれた環境そのものなのです。

物語の始まる3ヶ月前、郁紀は交通事故に遭いました。一緒に車に乗っていた両親は即死、そして郁紀もまた危篤状態に陥ります。


そんな郁紀を救ったのは最先端の医療でしたが、彼は一命を取り留めた代わりに「五感」の全てを失います。


汚らしい風景、耳をつんざく音、腐った臭い、吐き気を催す味、気持ち悪い触覚…全部が異常で狂った世界。それが郁紀のいる場所でした。

郁紀を取り巻く世界は一瞬にして崩れ去ります。学校も友達も家も、何もかもが以前と変わらずそこにあるのに、郁紀にとっては何もないどころかそれ以下の存在になってしまったのです。

そんな中、郁紀の前にヒロインである沙耶(さや)が現れます。この世界の中で、沙耶だけが「人の形」をしていました。


つまり人間が化け物に見える郁紀にとって、人間に見える沙耶は化け物です。


当然のように、郁紀は沙耶を愛します。そして沙耶もまた、郁紀を愛します。

「手を……握らせてもらえないだろうか」

「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」


郁紀の願いを聞いた沙耶は、そう答えました。

誰からも恐れられ、育ての親を亡くした、忌むべき化け物の少女。もしかすると彼女もまた、郁紀と同じく孤独だったのかもしれない。

そこまで考えて、ようやくこの二人に対して親近感が持てるようになります。しかし純愛とは、本来こういうものなのではないでしょうか。

他者を介入しない(もしくはさせない)あなたと私の二人だけの世界こそが、純愛なのかもしれません。

二人だけの世界


私は『月光の囁き』や『ナナとカオル』のような作品が好きなのですが、それらもまさしく「純愛」をテーマにしているのだと思います。


www.kotoshinoefoo.net
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しかし上記の作品における愛情表現は、普通ではなくアブノーマルです。彼らはそんな手法でしか愛を確かめることができません。

それらは『沙耶の唄』における郁紀と沙耶のように、誰からも理解されることのない愛です。

しかし私は『月光の囁き』や『ナナとカオル』の主人公たちに対しては、感情移入して物語を楽しむことができました。なぜなら私は、彼らに自分を重ねることができたからです。

ではどうして、郁紀と沙耶には感情移入することができなかったのでしょうか?


それは、郁紀と沙耶が「人ならざる存在」だったからです。


私は人間なので、どうしても心の底から二人の恋路を応援することができませんでした。

むしろ二人に恋人を食べられてしまった郁紀の親友の耕司(こうじ)や、地球外生命体である沙耶を葬りたいと願う郁紀の主治医の丹保(たんぼ)のように、一刻も早くこの世界から消えてくれとすら思いました。

しかし反対に、それだけ完璧な二人だけの世界が描かれているのだとも言えます。

だからこそ郁紀の理解者はこの世で沙耶だけだし、沙耶の理解者もまた郁紀だけなのです。そこに人間であるプレイヤーが介入することはできません。

3つのエンディング


このゲームにおけるEDは3つあります。分岐が2回しかないので、とても分かりやすいです。

「郁紀が人間性を取り戻し沙耶と別れる」病院ED。
「郁紀と沙耶が亡くなり世界は救われる」耕司ED。
「世界が郁紀と沙耶のために作り変えられてしまう」開花ED。

この中の開花EDは、「郁紀と沙耶に肩入れする」と見ることができます。


つまり二人にとってのハッピーエンドは開花EDなのですが、このEDは人間から見るとバッドエンドです。


物語のラストに背中から羽が開花した沙耶は、地球上に無数の二人の子どもたちを降らせます。

ゲーム画面(郁紀)で見るとその光景は世にも美しい光景ですが、この世界に生き残った人間(丹保)からするとかなりグロテスクな光景でしょう。

おぞましい肉で覆われた街や、次々と化け物に変異する人々の姿は、まるでバイオハザードやサイレントヒルのようです。

プレイヤーである私は、このEDを感動的なものとはとても思えませんでした。むしろ怖かったです。しかし、恐らくこの感情を持つことは正しいのでしょう。

ここでパッケージ裏をもう一度見返してみます。するとそこには、

サスペンスホラーアドベンチャーゲーム


と書いてあります。

そうです。これは純愛アドベンチャーゲームではなく、あくまでサスペンスホラーアドベンチャーゲームなのです。

それなのにこの物語は、人間ではなく「人ならざるものたち」に焦点を当てています。バイオで例えるとゾンビが主役の物語です。

仮にこの物語の主人公が耕司なら、私はきっと心の底から開花EDに対して絶望する(ホラーを楽しむ)ことができたでしょう。でも私はこのEDを見て、中途半端にしか絶望できませんでした。


なぜならゲーム全体を通して、二人の愛をこれでもかというほど見せつけられてきたからです。


病院EDは、「郁紀が人間らしさを取り戻す」と見ることができます。しかし郁紀は、もう普通の人間ではありません。彼は精神異常者として真っ白な病室に閉じ込められてしまいます。

郁紀が人間に戻ることで、郁紀にとっての沙耶は化け物になってしまいました。しかしそれでも郁紀は沙耶を「愛している」と言います。

耕司EDは、「耕司(人間)に肩入れする」と見ることができます。ここでは「郁紀へと手を伸ばそうとする化け物(沙耶)に耕司がとどめを刺す姿」が描かれます。言い換えると、愛し合う二人が価値観の違う者(プレイヤー)に存在を抹消されるのです。

ちなみに私は無意識の内に「耕司EDがハッピーエンドだろう」と思っていたのですが、最後に耕司は精神に異常をきたしてしまいました。

二人の愛を否定したいのに、否定しきれない。だからこそ矛盾しているのに、彼らを切り捨てられないのかもしれません。

まるで真実を知り、病んでしまった耕司のように。

排他的な関係


二人の愛を突き詰めるということは、きっと「それ以外の他者との関係を断つ」ということなのでしょう。

もちろん社会的に考えてそれは不可能で、だからこそ大抵の人は世界と折り合いをつけて生きていくのだと思います。


でも、もしもその世界には敵しかいない状況だとしたら?


現在はこうしてネットで世界中の人と価値観を共有できる時代ですが、それでもやっぱり人は孤独を感じるのではないでしょうか。

そんな中で、たった一人でも自分を理解してくれる人がいたら。自分を受け入れてくれる人がいたら。


自分たちとは反対の価値観を持った人間を、とても疎ましく感じるのかもしれません。


自分とは正反対のものを好きで、それを愛し、それを大切に思う人間がいるのだとしたら、彼らは自分を脅かす存在にもなり得るのです。

それが多数派であればあるほど、きっとそれらの価値観に押し潰されてしまいそうになるのでしょう。

私は人間である以上、今後も郁紀と沙耶のことが理解できないのだと思います。それでも彼らの愛について想像することはできます。

何だかんだ言って私はこの作品がとても好きだし、またいつか忘れた頃にプレイするのだと思います。

そしてその度に私は、郁紀と沙耶について考えてしまうのでしょう。

個人的な感想


思い出補正もあるかもしれませんが、私はこの『沙耶の唄』のように2000年前後に作られたビジュアルノベルゲームが好きです。

このブログではそんなゲームをいくつか紹介していますが、実はこれ系のゲーム記事は更新することを躊躇ってしまう気持ちもあります。


なぜならこのブログにはグーグルアドセンスの広告を貼っていて、内容によっては広告が制限される恐れがあるからです。


実際にこのブログでは、いくつかの記事の広告配信を停止しています。好きなことを書いてるだけじゃ、お金にならないのです。

私は単に趣味でブログをやってるので、広告の配信を停止されても「あちゃ〜」と思う程度で済みますが、もしこれで食べてる人がいるとしたら大打撃でしょう。

それこそ『沙耶の唄』のようなゲームを市場に流通させるような立場なら、私のように「あちゃ〜」では済まされません。

すると、表現の幅は少しずつ狭くなっていくのだと思います。ウケるものや、もしくは求められるものを追い求めていく。しかしそうして出来上がるものは、やがて少しずつ自分が描きたかったものとはかけ離れていくのでしょう。

個人的に『沙耶の唄』は、多くの人から愛され、支持される作品ではないと思っています。でも、私はこの作品がとても好きです。

市場にこういうものがある。それだけで私はとても嬉しく思います。それが「仕事」として作られたものでも、妥協や折衷案の末に生まれたものであっても。

私はこの記事が広告配信を停止されないように、気をつけて文章を書いています。もしかしたら『沙耶の唄』のような作品も、同じようなことをしていたんじゃないかなと思っています。

それはまるで、やりたいことのために抜け道を探し当てたような感覚なのだろうなと思います。もちろん、あくまで想像でしかないのですが。


「売れるかどうか分からないニッチなゲームを作ること」と「1円にもならないかもしれない記事を書くこと」は、少し似ているような気がします。


私は今後もこのようなゲームを遊び続けたいし、このブログで感想を言いたいです。

『沙耶の唄』が好きだと、鬱ゲーや電波ゲーが好きだと、暗く悲惨でどうしようもない物語が好きだと、もっと遊びたいと。

そして願わくば、このような趣味嗜好がメジャーなものになりますようにと、これからもギリギリの範囲で言い続けたいです。


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