新海誠監督の映画『すずめの戸締まり』を、劇場で観てきました。
私の感想としては「すごく良かった」です。あまりにも良かったので、帰りに本屋で小説を買って読みました。
一体この映画の何が良かったのかを掘り下げるために、今回は映画の感想について書いてみたいと思います。
※以下、映画・小説・そして前作『天気の子』のネタバレを含みます。
テーマについて
この作品は映画特典の『新海誠本』や小説のあとがきからも分かるように、2011年3月11日に起きた東日本大震災をテーマに作られたものです。
恐らく監督自身があの震災で感じたことを整理するために、そしてそれを受け入れるために作られた鎮魂歌のようなものではないかと考えます。
そういう意味ではとても個人的なテーマですが、同時に「日本に生まれた多くの人が共感できるテーマ」にもなっているのだと思います。
だからこの映画について語るということは、最後には恐らく文化や宗教性などの話に行きつくのではないでしょうか。
それは非常にセンシティブなテーマなのでとてもこんなブログ記事で語れるような内容ではないのですが、なるべく噛み砕いて話せたらなと思います。(ただそんなに詳しくないので話半分でお願いします!わりと感覚で書いてます!)
必然的にこの記事は楽しい内容ではないので、もし読んでいて気分を害された方はどうか無理をせず画面を閉じてくださいね。
ストーリーについて
主人公である少女鈴芽(すずめ)が、青年の草太(そうた)と一緒に日本各地にある扉を閉めていくというストーリーになっています。
『すずめの戸締り』の物語の中では、皆から忘れ去られた場所に後ろ扉(うしろど)が現れます。
ちなみに後ろ戸とはコトバンクによると、
仏堂の背後の入口のこと
を指します。つまり宗教的な意味を持つ入口のことですね。
その扉は今私たちが住んでいる現世(うつしよ)と、死者の世界である常世(とこよ)と繋がっています。
そして後ろ戸が開くことで、中からヒミズというミミズのような化け物が現れてしまいます。
閉じ師とは
後ろ扉を閉めるのは、閉じ師である草太の仕事です。
作中で閉じ師について多くは語られませんが、
代々続くうちの家業なんだ。これからもずっと続ける。でも、それだけじゃ食っていけないよ。
と草太は言います。
恐らく閉じ師の仕事は、薄給もしくは無給なのだと思います。しかも閉じ師の仕事は、多くの人に認知されるものではありません。
では草太は教師になるという夢がありながら、なぜそんな仕事をしているのでしょうか?
そう考えた時に、「お金が貰えない仕事は果たしてやる意味のないものなのか?」という疑問が浮かんできます。
今は世界の大多数が、資本主義というルールによって成り立っています。
お金がないとご飯も食べられないので毎日頑張ってお金を稼いだり、中にはお金でお金を稼いだりする人もいます。
このルールの中では閉じ師の仕事は無価値です。ですがそのルールを度外視した時、「自分ができる仕事でみんなの役に立つこと」はとても価値のあるものだと思います。
ヒミズとは
ヒミズは漢字で「日不見」と書きます。goo辞書によると、
モグラ科の哺乳類。
とあるようにヒミズは日本に生息しているモグラの一種ですね。しかし作中では、
かけまくもかしこき日不見の神
と呼ばれています。ちなみに「かけまくも」は、恐れ多いというような意味です。
つまりヒミズはただのモグラではなく、畏怖するような神様として扱われています。
そして私はこのヒミズのことを、クトゥルフ神話に出てくる邪神と似ている存在だと思いました。
神様と災害について
突然ですが、私は最近クトゥルフ神話TRPGに関心があります。
これは宇宙的恐怖(コズミックホラー)をテーマにしたゲームです。
クトゥルフ神話という物語の中では、必ず巨大なクトゥルフ神話生物が無力な人々の前に現れます。それはあまりにも大きく、常識を超えていて、理解することはできません。
そんな人間の力では到底敵わないものが目の前に現れた時、人はどう対応するのでしょうか?
人々は宇宙よりも巨大な存在に打ちひしがれ、己の無力さを嘆き、そして最後には発狂してしまいます。
そしてそれは、まるで災害と向き合った人間のようだと私は思います。
つまり災害のような人の手には負えない出来事が起きた時、ちっぽけな人間はただ呆けることしかできないのです。
この2つの神に共通していることは、「世界の裏側に存在している神が災いをもたらす」ということです。
白痴の神が人を嘲笑うかのように、ただ気まぐれに世界をめちゃくちゃにしていく。どちらもそんな恐ろしさがあります。
目的も意志もなく、歪みが溜まれば噴き出し、ただ暴れ、土地を揺るがす。
草太がそう言ったように、ヒミズは後ろ戸から現れる気まぐれな神様です。
ですがその結果起こる現象は災害に近いです。つまり神様とは自然の暗喩、もしくは自然そのものなのではないかと思います。
神を恐れること
私は最近アメリカのホラー映画をよく観ますが、終盤では大体「相手が何であろうと戦う意思を見せて自分に打ち勝つ」というような流れが多いです。
ですが日本人の私の感覚からするとあんまりアメリカのホラー映画って怖くないし、「自分に打ち勝つ必要はないんじゃないか?」とも思います。
以前、「なぜアメリカのホラーは怖くないんだろう?」と思って調べたところ、以下のような記事を見つけました。
上記の記事によると、
ホラー作品は「文化的恐怖」の側面が強くなります
とあります。それは自身の国土を大きくしてきたこと、ひいては勝者の歴史にも繋がるのではないかと思います。つまり戦うことは反発や拒絶に近いのではないかと思います。
しかし反対に日本は敗者としての歴史を歩んできたので、恐怖を受け入れるという選択をしてきた国とも言えます。
私は同じようにクトゥルフ神話もあまり恐怖を感じないのですが、それもやはり文化の違いから来るものなのかなと思います。
信じていた唯一の神を失うことへの恐怖こそが、コズミックホラーの根源のような気がします。
ですが「信じていたものが信じられなくなったから自分を保てなくなる」という感覚は、八百万の神がいる日本人からするとピンと来づらいのかもしれません。
だから何かを受け入れるということは、とても日本人的な発想なのかもしれないと思います。
目の前にとてつもない何かが現れた時、戦うのではなくあるがままに受け入れる。
もちろんそれはどちらがいいかという話ではなく、歴史を積み重ねた結果であり、ただ物事に対する反応の違いということに過ぎません。
科学への信仰
しかし現代において、特に日本では神様を信じている人の数は少ないのではないかと思います。
「信仰している宗教は?」と尋ねると、多分ほとんどの方は「自分は無宗教だ」と言うのではないでしょうか。
ですが私は、そういう人たちは無宗教ではなく科学を信仰しているのではないかと思います。
最近読んだこころの最終講義 (新潮文庫)という本に、
これだけ科学が発達して、ボタン一つ押せばロケットが月に行っているでしょう。うちの息子を学校へ行かすボタンはどこにあるんですか
ということが書かれていました。これは不登校の子どもを持つ父親が、実際に言った言葉です。
こうやって文章で見るとおかしな話ですが、現代では上記の言葉と似たようなことが多く行われているのだと思います。
例えば休ませず社員を働かせ続けたり、気に入らない有名人を叩いて改心させようとしたり…
誰も人の心を操ることはできないはずなのに、人間を機械のように自由に動かせると思い込んでいるのかもしれません。
なぜかというと、人は神にもなれるのだと錯覚してしまったからではないでしょうか?
現代では自然や宇宙までも、何もかもが科学によって解明されてきました。最近では通信技術やAI分野も進化を遂げ、以前よりも「できないことは何もない」と感じることは多くなってきました。
ですがそれはただの錯覚です。人は神ではないし、神は人にはなれません。
同じように自然もコントロールできないし、ある意味で災害も受け入れることしかできないのだと思います。
受け入れること
受け入れなければならないのは地震かもしれないし、台風かもしれないし、あるいは死なのかもしれません。
『すずめの戸締まり』の作中で、鈴芽は何度も「死は怖くない」と言いました。
しかしそんな鈴芽が唯一恐れたことは、草太を失うことでした。
作中で草太は、要石(かなめいし)になってしまいます。要石とは、災いを抑える神のことです。
草太は要石になることで、東京で起きるはずだった大震災を防ぐことができました。
それはつまり、草太の死を意味します。言い換えると、他者を失うことはとてもじゃないけど受け入れ難いことなのです。
諦めと受容の違い
受け入れるというのは、言葉で言うほど簡単なことではありません。
人はどんな悲しみにも抗えず、大きな痛みを伴いながら少しずつ時間をかけて傷を癒していくことしかできません。
似たようなテーマを描いた作品としては、『ラストオブアス2』がとても近いのかなと思います。
受け入れる過程で痛みを拒絶し、否定し、そしてなかったことにするというのは往々にしてよくある状態です。
私は『すずめの戸締まり』の中で描かれていたモブの群衆を、何も見ないようにしてなかったことにしている人たちだと思いました。
大災害の予兆である地震が起きても全く気に留めず日常に戻っていく姿は、受け入れているようで諦めているようにも感じられます。
鈴芽たちがボロボロの姿になって街を走っていても、まるで人々は心の後ろ戸を閉めるように見て見ぬふりをします。
しかしそれでも鈴芽と草太は後ろ戸と向き合い、忘れられた人々の声を聞き、神に祈り、鍵をかけて扉を閉めていきます
扉を閉めるということは、一見すると全てをなかったことにする行為のようにも感じられます。
しかし「全てをなかったことにする」のと「受け入れて祈る」というのは、似ているようで全く違うことだと思います。
祈りの意味
結局『すずめの戸締り』で描かれていることは、祈ることの大切さなのではないかと思います。
ですが祈るなんて馬鹿馬鹿しい、そんなことをして何になるんだろうという気持ちもあります。だって祈るだけじゃお金にならないし、それはご飯になってくれないからです。
私は過去に似たようなことを思いましたが、それは「念仏を唱えただけで極楽に行ける」という話を聞いた時です。
最初にそれを知った時はそんな上手い話があるもんかと思ったけど、映画を観終えた今ではこう思います。
祈りは願いであり、願いは希望であり、希望は明日であり、明日は生きることに繋がるのだと。
誰からも忘れ去られて廃れてしまった場所にある扉のように、目を閉じ祈ることで常世と繋がることができる。
そういう意味で黙祷があるのかもしれないし、念仏があるのかもしれません。それは諦めではなく、受け入れることなのだと思います。
草太はヒミズを封じるための最後の場面で、祈るように手を合わせました。
それでも私たちは願ってしまう。いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい!
人にできる仕事はとても少なく、ほとんどの出来事は神の領分にあります。でもそれでいいし、人が神になることはできません。
もしかするとこの世には神様なんていなくて、ただそこに宇宙や自然や生き物が存在しているだけなのかもしれません。
ですが文化や信仰、そして科学さえも、全ての歴史は人が生きた証です。
ただそれを思うこと、願うこと、祈ることだけでいいのです。今日を生きたいからこそ、人は神様を求めて祈るのかもしれません。
そしてその祈りはきっと明日に繋がるのだと、この映画では結論付けていました。
そのことを私はとても心強く思うし、だから私はこの作品がとても好きです。
アマプラで配信されましたね。ブルーレイやDVDも発売されたようです。まだ観ていない方はぜひチェックしてみてください。
ノベライズ版です。ほとんど映画の内容と同じでしたが、鈴芽の心情などが細かく描かれていました。