これは、二人の「愛と許し」を描いた物語だと私は思います。
作中には、変態というワードが多く出てきます。この漫画における変態とは、およそ一般的な性癖とは異なる性癖のことを指します。
例えば、好きな女の子のあられもない姿に興奮することは、よくあることですよね。
そしてそれが恋人同士だったとして、彼氏が彼女に興奮することは正常ですよね。愛してるから、彼は彼女に欲情するのです。
愛があればいいのか
でも、もしその対象が彼女ではなく、彼女の持ち物などにしか興味がないとしたらどうでしょうか。
好きな女やったら何してもええんか?
主人公である拓也(たくや)の友人は、彼の性癖を知り、この言葉を投げかけます。
拓也は、恋人である紗月(さつき)が別の男と寝ていたり、彼女の排泄音に対して興奮を覚えます。
果たして拓也の行いは、愛と呼べるのでしょうか?
次に許しについて考えてみます。「許す」と辞書で引くと、まず「罪や過失を咎めないこと」と出てきます。
基本的に許すということは、自分が相手の行いを受け入れるというか、聞き入れるというか、自分を曲げるというか……
つまりは、相手に対して寛容になるということですね。
自分を曲げてまで、相手を受け入れるということ。自分が変わってしまうほどの影響力がある。反対に、相手を変えてしまうほどの影響力がある。
それは許すということでもあり、愛するということでもあると思います。
私の事やどうでもええんや。私の気持ちやどうでもええんや。そうやって被害者みたいな顔しとるけど、失うんはいつも私……私ばっかりや……
紗月は作中で、ずっと悩み続けます。紗月の目には、拓也の愛はあまりにも自分勝手に映るのです。しかし拓也は、その言葉にこう返します。
俺やって失(な)しなっとる。ほなけどの、何か失しなっても、代わりに何か見つけるんや。俺は知りたい、北原の事やったら全部
私はこの言葉を、愛の告白だと思いました。
愛は祈りに近い
拓也は紗月の、存在の全てが愛おしいのです。そしてこれが、拓也の愛し方なのです。
私は、作中でこのシーンが一番好きです。すごく純粋で、まっすぐな拓也の愛は、まるで美しい純文学のようだと感じました。
そもそもこの作品は、谷崎潤一郎を漫画にする、というコンセプトで描かれたということです。
谷崎氏の文を読んだことはないのですが、文庫本のあとがきや解説によると、どうやら氏の『富美子の足』という小説が元になっているようですね。
初老の男が、富美子という17歳の少女の美しい足に踏まれたいと願う話。踏まれたいというただ純粋なその気持ちは、いっそ崇拝とも言えます。
祈りにも似た願いというのは、どこか現実離れしてしまうんでしょうね。だからこそ、拓也の願いもまた、美しく見えてしまうんだと思います。
二人の世界
拓也という人物について、作中で紗月の姉はこう語ります。
人が昔から月見て心を動かされるんは、月の囁きが聞こえとるけんなんよ。僕を照らして。僕はここにいる——僕は太陽(きみ)がおらんかったら生きていけん
拓也は紗月の、月でありたいと願いました。そしてその願いは、紗月に許されるのでした。
許して北原——
うん、許してあげる
拓也が願ったあの夢は、現実のものとなりました。
彼は許しを乞い、彼女は許した。私は、それはもう十分、愛なのだと思います。
誤解しないでほしいのは、私はそういう行為でしか愛を表現できないと言いたいわけではないのです。
彼と彼女の関係は、端から見ると異常に見えてしまうでしょう。でも、彼らの世界は全くもって正常なのです。
愛は、世間の善悪ではないんだと思います。愛は、二人の関係でしかない。
あなたと私、二人の世界の中だけで完結するのが、愛なのではないでしょうか。
- 作者:喜国雅彦
- 発売日: 2013/07/29
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