こんなんおひとつ

おすすめしたい作品のレビューやコラム

なぜアマゾンズ完結編に落胆したのか?映画『最後ノ審判』ネタバレ感想

最近になって初めて、『仮面ライダーアマゾンズ』のシーズン1とシーズン2を全話視聴しました。

アマゾンズのシーズンはどちらも素晴らしかったので、すぐに完結編である『最後ノ審判』も視聴しました。しかし私はこの映画を観終えた後、非常に落胆しました。

なぜ私はこの映画が気に入らなかったのか?今回は、それについての感想を書きたいと思います。

シーズン1と2について


アマゾンズは、「生きることの痛み」をテーマにした作品だと私は思います。

このシリーズは初期の平成ライダーのテイスト(クウガや龍騎など)を持ちながら、それら以上にテーマを掘り下げています。


www.kotoshinoefoo.net


人間でありながらもアマゾンの遺伝子を持った仁(じん)
アマゾンでありながらも人間の遺伝子を持った悠(はるか)
アマゾン細胞を持つ仁と人間との間に産まれた千翼(ちひろ)

主役の彼らだけではなく、その周囲の人間やアマゾン達にもそれぞれのドラマがあります。

時には残酷に、時には凄惨に、時には無慈悲に。生きるために戦い、生きるために喰う。影が光を浮かび上がらせるように、死が生を強烈に実感させます。

なんで俺たちは生きてちゃ駄目なんだ!


シーズン2の主人公である千翼は、作中でこう言います。

そして千翼以外の人間やアマゾンも、誰もが苦しみながらそれでも懸命に踠き、生きようとする。

その姿に私は感動したし、それは刹那的に生きる彼らだからこそできたのだろうと思います。

前提として、私はそんな『アマゾンズ』で描かれたキャラクター達が好きでした。

なぜ落胆したのか?


しかし映画では、過去シーズンのような感動はありませんでした。

そしてそれを単純に「つまらない」とか「合わなかった」などという言葉で片付けるには、あまりにも前作の存在が大きすぎたのです。

私が『最後ノ審判』という映画の何に対して落胆したのか。順番に一つずつ書き出してみたいと思います。

過去シーズンの焼き直し


映画の中で、仁は養護施設「切子聖園」の園長である御堂(みどう)により捕らえられ、監禁させられます。

御堂は仁の体からアマゾン細胞を抜き取り、養護施設の真の目的である「アマゾン牧場」を作るために、人工アマゾンの培養をしていました。


しかしこの流れは、シーズン1とシーズン2ですでに行われたものです。


人間がアマゾンを食べるために「アマゾン牧場」を作るという設定こそありませんでしたが、「人間に擬態したアマゾンを生み出す」ということはシリーズの一番最初に描かれています。

シーズン1では「トラロック」という作戦により4000体もの培養されたアマゾンを大幅に減らし、さらにシーズン2では全滅に至ります。

あれだけの時間を費やし描いてきたのにも関わらず、また同じテーマを形を変えて描かれても仕方がありません。

仁はシーズン1でアマゾンを「自分の子ども」と言いながらも始末し、何よりシーズン2では自らの子どもである千翼やその母親である七羽(ななは)を、自分の手で葬っています。


そんな仁に、なぜまた自らの子どもを産み、始末させる必要があるのでしょうか?


乗り越えた試練をもう一度繰り返しても、仁が仁である限り、結末に変わりようがありません。

むしろ結果がわかっている分、一視聴者の私からすると、ある種拷問にも近いと言えます。この作品を通して、私はそういう辛さを感じたい訳ではありません。

さらにもう一人の主人公である悠も、シリーズを通して「迷い」を断ち切りました。

守りたいものを守って狩りたいものを狩る。

そのために戦います!


人間とアマゾンの間で揺れ、どちらを守るかを常に迷い続けていた悠は、シーズン1で決心します。


それなのになぜ、映画でまた悠に「守ること」を迷わせる必要があるのでしょうか?


誰だって心があれば、人もアマゾンも迷うし、立ち止まるし、挫けることもあります。

もちろんもう一度迷ってもいいのですが、それならなぜ「もう一度迷うことへの苦悩」までもセットで描かないのでしょうか。

繰り返しになりますが、形を変えて同じ悩みを抱かせてもしょうがないのです。

過去を踏まえて、そして過去を超えて成長したキャラクターを見ることができなければ、それは拷問に近いのだと思います。

キャラクターの退化


先ほどの仁や悠と同じなのですが、登場するキャラクターのほとんどに「過去シーズンを踏まえて生きてきた結果」が見受けられません。

むしろ同じことを繰り返している分、キャラクターが退化、もしくは退行しているようにも感じます。

そこで私はある仮説を立てたのですが、この映画は「シーズン1(もしくはシーズン2)と並行して作られた」のではないでしょうか?

もしくは、「わざと両シーズンを意識せずに作った」のかもしれません。


なぜならこの作品をシーズン1の完結編として観た場合、その結末や展開がなんとなく腑に落ちるからです。


この映画を観ていて強く思ったのは、「過去シーズンの焼き直し」ということですが、それは裏を返せば原点回帰とも言えます。

原点回帰も悪くはありませんし、様式美もコンテンツによっては素晴らしいものになり得ます。しかしそれが通用するのは、「コンテンツが存続していること自体に価値がある場合」ではないでしょうか。

例えば『サザエさん』や『ドラえもん』などは、毎週形を変えて同じ話の焼き直しをしているとも捉えることができます。しかしそれは、そこに安心や安定を求めているからだと思います。


私がこの映画に不満を抱いた理由は、「アマゾンズはそうではないと信じて期待していたのに裏切られた」ということに尽きます。


視聴者はきちんとラベルを見て商品を選び、理解した上で目にします。しかしその内容物を偽られると、反感が出てもおかしくはありません。

ですが、ただ声を荒げて「全て寸分違わず正しく記入しろ!」と主張するのもおかしな話だとも思います。もちろんこれは権利ではないのです。

信頼というのは恐ろしいことです。それなのに私は、この作品だけはそれを裏切らないだろうと信じていたのです。

受け入れざるを得ない史実


『最後ノ審判』で私が一番残念に思ったのは、これが「史実」だということです。

例えばよくあるライダーや戦隊のお祭り映画のようなノリで製作されたのなら、ifを描いたパラレルワールドの設定なら、少なくともここまで落胆はしなかったでしょう。しかし、物語は進んでしまいました。

主要人物である仁は亡くなったので、どうあがいても文字通り「完結」させられてしまったのです。

私はシナリオや設定の粗探しをしたくないので、そこについてはあまり触れません。でも、キャラクターの心情だけは捻じ曲げて欲しくなかった。


シーズン1やシーズン2を通して描かれた彼らの「生き様」を否定されることは、私にとってオーバーキルにも等しい行為です。


シーズン2のラストで千翼と、彼が愛した少女イユが撃たれているのを見ていた裕樹(ひろき)のように言うと「もういいだろ!?」です。

目を覆いたいのに、目の前で銃弾を浴びせられる姿を見せつけられる。見なければいいのにそれでも見てしまうのは、「それでも最後まで見届けたいから」なのだと思います。

私は仁というキャラクターが亡くなることに対しては、何の不満もありません。問題なのはその「生き様」です。

「アマゾン達を狩るまで終われない」と言っていた仁が、果たしてアマゾンを残して逝く際に笑顔になれるのでしょうか?

シーズン2のラストで大切な人である美月(みづき)に「生きて」と言われた悠が、果たして自らその命を放棄することを選ぼうとするのでしょうか?

何のために、あれだけの時間を費やして七羽や千翼やイユは亡くなったのか。なぜ悠は千翼を自らの手で葬った後、もう一度生きることを願ったのか。そればかりが頭をよぎります。

シーズン2でイユの父親は、優しさ(あるいは偽善)で千翼と七羽を救いました。しかしそのせいで彼はアマゾンになり、その結果自らの子どもであるイユを喰らうことになりました。

この映画は、まさにそんなイユの父親と同じようなことをしたのだと私は思います。仁が最期に七羽の幻影を見て安らかに逝けたことは、ある意味では優しさであり、救いなのでしょう。しかしそれは偽物の優しさです。


なぜなら今まで散々シーズン1とシーズン2で描いてきたように、その優しさの最後には必ず大きな代償が支払われると知っているからです。


そしてその代償は、私のようにこの作品を信じて完結編を観た視聴者の「感情」なのかもしれません。

悠が仁を倒して生き残るというエンディングにするのならば、仁は最後まで足掻いて悔し涙を流しながら逝って欲しかったし、悠はそれを受けて決して未遂でも自らの命を放棄するという選択を取らないまま気高く旅立って欲しかったと私は思います。

もしくは仁が悠を葬った後、仁も自らの命に終止符を打ち、その最後の最後に微笑んで欲しかった。そう強く思います。

期待を裏切られることの痛み


この記事を書くか、私は随分迷いました。なぜなら今までも、この作品のように最後で裏切られた経験がいくつかあるからです。

私はその度に迷い、記事を削除し、心の中に閉じ込めて「なかったこと」にしようとしましたが、それは消えずにずっと残り続けています。それでも同時に、私は誰かを傷つけるために筆を取りたくないとも思っています。

しかし傷ついた自分の心は、一体どう癒せばいいのでしょうか?もしかすると、きっとそれは書くことでしか癒されないのかもしれません。

もしこの作品に落胆した人がこの世にいるのならば、私はあなたのためにこの記事を書いています。そして同時にこの作品が好きだという方も、スタッフに対する否定もしたくはないのです。

様々なことを考える中で、最近このような記事を読みました。


kinonoki.com


上記の記事で書かれているように、今回の出来事もまさに「公式との解釈違い」なのかもしれません。

自分が気に入らない作品について、どこが気に入らないのかを書き連ねるということは、自分で自分を痛めつける行為と似ています。ですがまさにそれは、人を喰わねば生きられないアマゾンのようだとも思います。

きっとそれもひっくるめて、この作品は「生きることの痛み」を描いたのだと思い、自らを納得させるしかないのでしょう。徹底してシリーズで描かれた「生きることの痛み」は、皮肉にもこの『最後ノ審判』の存在でより強固なものとなりました。

繰り返しになりますがこの記事には、この作品を好きな人や、作った人のことを乏しめようとする意図はありません。

ただ一人の人間が、哀しみを背負い、泣きながらこの文章を書いているだけなのです。



プライバシーポリシー | お問い合わせ
© 2016-19 こんなんおひとつ