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仕事に疲れた大人に刺さるのはなぜか?映画『ラヂオの時間』ネタバレ感想

私は今まで三谷幸喜監督の作品を一度も観たことがなかったのですが、ようやくこの『ラヂオの時間』を初めて視聴することができました。


ラヂオの時間


社会人としてどこかで働いたことのある人ならば、この映画を観てその時の悔しさや悲しさが蘇ってくるかもしれません。私もその内の一人でした。


「仕事って一体何だろう?」


そんな風に思わせる『ラヂオの時間』について、感想を書きたいと思います。

仕事って何だ?


私は以前、詳しくは言えませんがある会社でものを作る仕事をしていました。

しかし私がその時に作ったものは、許可もなく知らない間に手を加えられ、最後に市場に出たものは「私の作品」とは呼べなくなるような代物でした。


その時の私は、とても悔しく、とても悲しく、そしてとても怒りました。


しかしその怒りは誰にもぶつけることはできず、「どうして私はこんなものを作ってしまったんだろう」と一人で後悔し、様々な理由もあってその仕事は辞めてしまいました。

みなさんの都合であたしの本寄ってたかってめちゃくちゃにしといて、よくそんなことが言えますね!


脚本家の鈴木みやこは映画の終盤、スタッフや演者に向かってそう叫びます。私はこんな風には叫べなかったけど、まさに彼女の叫びは私の心そのものだと思いました。


仕事って、一体何なんだろう?


私は今まで、ずっとこのことばかりを考え続けてきました。職を変えても、いつも心のどこかで同じ問いかけがぐるぐると回り続けていました。

どうして会社は「私の作品」をめちゃくちゃにするのだろう。それならいっそ「私」という存在なんて、この世に必要ないんじゃないか。

人によっては、私のそんな考えは甘っちょろいと叱咤されるのだろうと思います。もちろんそんなことは分かっているけど、当時の若い私には、そして今でもそれが、どうしても許せなかったのです。

だからこそ私は、この映画の鈴木みやこという登場人物に、苦しいほど自分を重ねてしまいました。

みんな自分勝手だ


みやこの脚本は、当初「平凡な主婦が熱海で漁師と駆け落ちする愛の物語」というものでした。

しかしキャストの都合やスポンサーの都合により、最終的に「女弁護士がシカゴで宇宙飛行士の男と出会うが最後に自立を選び取る物語」になってしまったのです。

生放送のラジオに間にあわせるために、即興で書き換えられていく物語。

そして脚本内の「平凡な主婦」である律子はメアリー・ジェーンに、「漁師」の寅造はドナルド・マクドナルドへと名前が変更されてしまいます。

ここにいるやつらは、誰も良いものなんて作ろうと思っちゃいない。


ディレクターの工藤は、脚本家のみやこに対してそう言います。

プロデューサーはラジオが無事終了させることを、編成は特にラジオに思い入れがないことを、そして自分は与えられた仕事をこなすことしか考えていないということを。

そして脚本家のみやこでさえも、実は脚本の「平凡な主婦」に自分を重ね合わせていたということが分かります。


一体何のために、このラジオドラマは放送されているのだろう?


誰のためのドラマなのか、何のための放送なのか。そんなことも分からなくなるままドラマは迷走に迷走を重ね、ついにみやこはスタジオに立てこもり、抗議をします。

だったら…最後にあたしの名前を呼ぶのやめてください!あたしの本じゃないって言ってください!


みやこの叫びに、プロデューサーの牛島はこう返します。

あんた何も分かっちゃいない。我々がいつも自分の名前を呼ばれるのを満足して聞いてると思ってるんですか!


妥協をするのは責任があるからだと、どんなにひどい作品でも逃げることはできないのだと、牛島は叫びました。

シナリオの行方


みやこの抗議も虚しく、ラジオの脚本はラストシーンさえも作り変えられ、もはや全く原型がない状態になってしまいます。

私良いです。何を変えられてもセリフが変わっても設定が変わっても、それはあたしの力不足なんですから。

でもそれはダメなんです。律子は寅造と結ばれないとダメなんです!


ディレクターの工藤はそんなみやこの悲痛な声を聞き、牛島に「ラストシーンを元のシナリオに戻す」よう頼みます。

牛島さん、これ以上変えたらあの人の本じゃなくなる。俺たちにそこまでする権利はない。もうよしましょうよ。


それでも牛島の考えは変わりません。そこで工藤は周囲の反対を押し切り、強引に「責任は自分一人で取る」と行動に移します。

現実の世界に、会社の中に、こんな人はきっといません。めちゃくちゃになってしまった作品を、最後にどうしても満足のできる、納得のいくものにしたい。

雇われの身でそう思って行動できる人は、一体どのくらいいるのだろう?上司に楯突いてまで行動できる人が、どのくらいいるのだろう?

工藤の行動の結果、スタッフやキャストの協力もあり、無事にみやこが望んだ「ラストシーン」へと戻すことができました。律子はメアリーのままだし、寅造はドナルドのままだけど、それでも二人は結ばれたのです。

私は観ていて、この最後の展開はとても非現実的だと思いました。でも同時に、それで救われた自分も確かにいました。

満足できない作品との付き合い方


作り手側ではなくとも、受け取る側として「これは満足できないな…」と思う作品に出会うこともあるかと思います。

私も最近そのような作品に出会うことがあり、それらとどのように接したら良いのかを、ずっと考え続けていました。


なぜこの作品が生まれてしまったのだろう?これは一体、誰の責任なんだろう?


ふと、そんな風に考えてしまうこともあります。でも、もしかするとそれは「この映画のような状況だったのかもしれないな」と、そんな風にも思います。

我々は信じている。いつかはそれでも満足いくものができるはずだ。その作品に関わった全ての人と、それを聴いた全ての人が満足できるものが。

ただ、今回はそうじゃなかった。それだけのことです!


この牛島の叫びは、果たして作り手側の怠慢なのでしょうか?それとも、努力の結果なのでしょうか?

全てを受け入れて「どんなものでも満足だ!」と心を押し殺すのもおかしな話だと思うし、かといって全てを自分の思い通りにしようと作り変えるのも無理な話です。

作り手ができること、そして受け取る側ができること。それはきっと、作り続けることしか方法はないのでしょう。そしてまた、信じて受け取り続けるしか方法はないのでしょう。

だから「大人に刺さる」映画


仕事をするということは、何かを妥協し、何かを犠牲にすることなのかもしれません。

「工藤。俺は時々虚しくなる。何のためにこんなことやってるんだ。みんなに頭下げて、みんなに気を遣って……何がやりたいんだ俺は!」

「自分で言ってたじゃないですか。いつかみんなが満足するものを作るんだって」


映画のラストシーンで、牛島と工藤はこんな会話をします。そして最後に、スタジオに駆けつけたラジオドラマの視聴者が、「あのドラマよかったよ」と涙を流します。

この映画は、形は違えども同じような経験をしたことがある人たちのための作品なのではないかと思います。

今も前線で何かを作り続けている人や、過去に何かを作っていた人、そしてそれを受け取り続けている人のための物語。


だからこそ、一度でも社会に接したことのある人は、この映画が刺さってしまうのかもしれません。


時に裏切られても、時に傷ついても、やっぱりもの作りはやめられないし、誰かのものを受け取ることもやめられません。

だからこうして私は、ブログに書き込んでしまうのでしょう。これからもきっと、様々な作品を楽しもうとするのでしょう。



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