とても挑戦的な作風で、最終回が楽しみだったアニメがあった。
手塚治虫氏が50年前に作った漫画作品を、わざわざ現代でリメイクしたアニメがあった。
今回は、そんな『どろろ』2019年リメイク版アニメについての感想を書きたいと思います。
リメイク版について
原作とはキャラクターデザインを一新し、独創的なOPで世界観を魅せた意欲作。
最終回の直前まで私はそう思っていましたが、この記事の根底にある感情は「怒り」や「失望」に近いです。しかし私は同時に、この作品のことがとても「好き」でもあります。
前提として、私は原作を読んでいません。なので私にとって『どろろ』という作品は、リメイク版が全てです。
つまり原作とアニメとの比較ではなく、アニメ作品単体の感想としてこの記事を書いています。
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この物語は主人公である百鬼丸が、産まれながらにして体と人間性を失い、それらを取り戻すための話だと私は思っていました。
鬼か、人か。
この作品のキャッチコピーとして、本編や公式HP等でも使用されていた印象的なフレーズです。
この言葉のように、百鬼丸が自らの体を取り戻すためには、人間や妖怪を斬らなければなりません。
物語の中でもこの問答は常に行われていました。特に1クール目の山場である「守小唄の巻(5話と6話)」では、ミオという少女を襲った連中を、百鬼丸が問答無用で斬りつけます。
人を斬り、まるで鬼神のように慟哭する百鬼丸。鬼神とは、百鬼丸の体を奪い、その部位を宿した妖怪のことです。
人間になりたいのに、まるで獣のように鬼神や人を斬る百鬼丸は、果たして何者なのだろうか?
そして1クール目のラストである「ばんもんの巻(11話と12話)」では、百鬼丸を犠牲にする代わりに平穏が訪れた醍醐の国の者たちと戦います。
生きたい。ただそれだけなのに多くの命を犠牲にする百鬼丸と、醍醐の国の時期領主で百鬼丸の実の兄弟でもある多宝丸。
物語は徐々にこの二人の「正義」による戦いにフォーカスしながら、最終回へと進みます。
百鬼丸と多宝丸
そもそも、百鬼丸はどんな人間なのでしょうか?
百鬼丸は物語の冒頭から、どろろという少女と行動を共にするようになります。
「守小唄の巻」で百鬼丸が我を忘れて鬼神になりかけた時、それを止めてくれたのはどろろでした。
やめろ、やめてくれ兄貴!鬼になっちゃダメだ!
百鬼丸を動かすものは常に「怒り」か、もしくは「満たされなさ」です。しかし百鬼丸は、どろろのおかげで「心」を知ったのです。
百鬼丸は体がないから、いつも不確かで不完全な存在です。彼には確かなものなんて最初からなくて、だからこそ求めている。
それを奪うものは許せないけれど、でも彼の「体」への執着はきっと普通の人間には分からないのです。なぜなら百鬼丸はずっと、個人的な理由で戦っているからです。
一方で多宝丸について。百鬼丸とは対照的に、多宝丸(と父親の景光)はずっと「他者(国民)のため」に戦っていました。
しかしそれは隠れ蓑で、その後ろには「プライド」や「自己顕示欲」のような個人的な感情も少なからずあるはずです。
つまりは綺麗事を並べただけで、彼らは百鬼丸と同じ存在なのだと私は思います。
「正義」と「正義」
百鬼丸とどろろは2クールをかけて、お互いの距離を縮めていきます。
自分以外に対しては無関心だった百鬼丸が「鵺の巻(20話)」にきてようやく、どろろのおかげで景色に興味が湧いてくるのです。
「うんうんうんって、本当に聞いてんのか?」
「うん。だからもっと聞きたい。どろろの話」
しかしそんなどろろを、百鬼丸は義手であるが故に助けることができない状況に陥ります。
自らのために体を取り戻そうとしていた百鬼丸が、初めて他人のために己の手を欲しがる。
これは国民のために戦いたいと願った多宝丸と、同じなのではないでしょうか?
どちらが勝っても犠牲は大なり小なり出てしまう。でもきっと、それが「正義」なのかもしれません。
物語の終盤、鬼神によって多宝丸の付き人(兼友人)である陸奥と兵庫に百鬼丸の腕が一本ずつ、そして多宝丸には百鬼丸の目が与えられます。
百鬼丸は体を取り戻す必要があるし、そのために醍醐の国を滅ぼし、多宝丸を斬らねばなりません。多宝丸も同じく、国や兵庫や陸奥のために、肉親である百鬼丸を斬らねばならないのです。
どちらかを倒すまで終われない戦い。もし百鬼丸が勝ったとしても、すでにその手は多くの血で濡れています。
人に戻るために鬼に近づいた百鬼丸は、最終的にどのような決断をするのか?どちらが勝利するのか?この物語はどいういった結末を迎えるのか?
それらは全て、最終回まで描かれずに物語は進んでいきます。
本当に、この23話までがとても面白かったのです。
まさかハッピーエンドだけはないだろうと。それを描くにしても何らかの納得のいくような描写があるのだろうと。そう期待しながら最終話を待ち望んでいたのです。
話は変わりますが、過去に『仮面ライダー龍騎』という作品がありました。
「戦わなければ生き残れない」という印象的なキャッチコピー通り、『龍騎』ではそれぞれの登場人物が自らの「正義」のために戦っていました。
『龍騎』の中で戦っていたキャラクターたちは、最終回でそれぞれの「正義」をぶつけ合い、その結果ある一人の男が生き残りました。
そんな『龍騎』のように、『どろろ』も最後にはきっとそれぞれの「正義」に決着が着くのだろうと思っていたのです。
生き残るべきではない理由
その結果、生き残ったのは百鬼丸でした。それぞれの「正義」のために戦った二人は、百鬼丸の勝利という形で決着がついたのです。
「なぜ……なぜ外した。今の一太刀、私の首も落とせたはず。なぜ……」
「わからない。ただ、同じだ。お前も。お前は、人だ」
そう言って、百鬼丸は多宝丸の中から出てきた鬼神を倒すことで完全な体を取り戻します。
百鬼丸は多宝丸を斬らず、そしてまた多宝丸も百鬼丸を斬らなかったのです。
斬るということは、責任なのだと思います。
全てを背負って最終決戦に臨んだ二人は、その責任を果たすことなく戦いを終わらせました。
そして体を取り戻した百鬼丸は、なぜかどろろを置いて一人で流浪の旅に出ます。その理由は語られないまま、どろろ曰く「何かボソボソ喋って」一人でどこかに行ってしまったのです。
さらに百鬼丸が体を取り戻すことによって失われた醍醐の国は、どろろの両親が残した莫大な金により再建します。
正直私は、百鬼丸が最後に敗れてもいいとさえ思っていました。もちろん負けて欲しくはないけど、それしか決着がつかないだろうとも思ってました。
もしくは多宝丸が敗れ、業を背負った百鬼丸が一人で修羅の道を歩き出す。そんな覚悟もしていました。
しかしこの物語の最後は、体を取り戻した百鬼丸がふらりと旅に出たあと、ミオから預かった種籾が生い茂る醍醐の国で、美しく成長したどろろと再会することを暗示させる…というものでした。
百鬼丸は体も、人としての尊厳も、自由も、何もかも得たまま生き続けるのです。
百鬼丸が身体を取り戻すことは、業の塊だと私は思います。それは多宝丸も同じで、とても利己的で傲慢なことです。しかし、それは何も悪いことではありません。
問題なのは、百鬼丸が人としての心を失ったままだということです。
彼が生き残った末に得たものは、幸せだけなのでしょうか?
多くの人を犠牲にしてしまったこと。そしてその犠牲の上に自分が成り立っていること。
百鬼丸はそれをきちんと理解しているのでしょうか。理解した上で旅に出たというのなら、なぜその描写が一切なかったのでしょうか。
もちろん百鬼丸は、生まれた時から体を失っていました。でもそれを取り戻して万々歳、とはならないと思います。十字架を背負って生きていかなければならないのだから、普通の人の何倍も苦しいはずなんです。
でも目を取り戻した百鬼丸にとって空は綺麗だし、どろろも綺麗なんです。そして同時に、醍醐の国が綺麗ではないことも分かっているのです。
身体を取り戻したのなら、「心」も人に近くなるのではないでしょうか。
「国がどうなろうが関係ない」と言っていた百鬼丸が体も心も取り戻した先には、後悔や悲しみや苦しみがあるんじゃないのか?
百鬼丸は生き残ったのに、なぜその描写が一切なかったのか。これは多宝丸が生き残ったとしても同じことです。
この記事のタイトルのように「生き残るべきではない」というのは言い過ぎなのかもしれません。正しく言うのならば、百鬼丸が生き残るのなら「体が失われてしまった過去」ではなく「取り戻したために奪ってしまった未来」に対してそれ相応の代償を払って欲しかった、ということです。
いくら最初に体を奪われたからそれを取り戻したとはいえ、百鬼丸の業がプラスマイナス0になるというわけではないでしょう。これまでに百鬼丸は多くの犠牲を出してしまったはずです。
だからその上で、彼には足掻いてみせて欲しかったのです。その生き様を、最後にしっかりと伝えて欲しかったのです。
それができないのなら、生き残って欲しくなかったと私は思います。もしくは、多宝丸をきちんと自分の手で葬って欲しかったのです。
その先の「答え」
もちろん「百鬼丸は苦しみ続けて一生を終えろ」と言いたいわけではありません。ただ私は、その先にある「答え」に辿り着いて欲しかった。
物語の最後に、製作者が導き出した『どろろ』という作品についての「答え」さえ示してくれたら。百鬼丸が最後に自分の思いや感情をぶつけてくれさえすれば、私はそれで良かったのです。
鬼か人かの問いかけに、この作品なりの「答え」を導き出して欲しかった。私が言いたいことはただそれだけです。
仮にもしこれが全力で出した「答え」なら、この百鬼丸は人間ではなく絵空事のヒーローか、ただのお人形だと私は思います。
私は最後に「人間」としての百鬼丸の、泥臭さやカッコ悪さが見たかったのです。
私はリメイク版『どろろ』は、一生心に残る作品になると信じていました。そのくらい、このリメイク版で生まれた百鬼丸やどろろというキャラクターや設定は本当に魅力的で、素晴らしいものだとさえ思いました。
私は最近、『仮面ライダーアマゾンズ』についての記事を書きましたが、それと同じような感情を『どろろ』の最終回を見て抱きました。
私はこの作品に期待していたのです。この作品を通して新しい可能性を提示してくれるのではないかと、価値観を示してくれるのではないかと、勝手に期待しすぎてしまったのです。
そういった意気込みの現れが『どろろ』のキャラクターデザインなのだと、あの尖ったOPなのだと私は捉えてしまっていました。
鬼か、人か。
その先の「答え」は私の幻想に過ぎなかったのだと、最終回を見終えた今、改めてそう思います。
でももしかすると、そんなものは視聴者も製作者も誰も求めていなくて、私だけがたった一人それを望んでいたのかもしれません。そしてこの結末こそが、「新しい価値観」であり「答え」だったのかもしれません。
その「答え」はすでに提示されていて、私がそれを認めたくなかっただけなのでしょう。
この記事は、この作品が好きな人や、製作者を否定する意図で描かれたものでは決してありません。あくまで私の主観で書かれた、ただの感想です。
この作品の素晴らしい世界観とキャラクター達に出会えたことは、とても嬉しかったです。しかし私はその最終回に納得することができなかった。そして、私は百鬼丸を「人」とは思えなかった。これはただそれだけの記事です。とても個人的なことを、自分のためだけに書いたのです。
私は新しい価値観を求めるフリをしながら、ずっと古い価値観を大切にしていたのでしょう。ようやく最後の最後で、自分が何を求めていたのかが分かった気がします。
だからきっと私は、一生この『どろろ』という作品について考えてしまうのでしょう。
追記:優しい嘘と残酷な真実
最近『ラストオブアス2』というゲームをクリアしました。
具体的な『ラストオブアス2』の感想は上記のリンク先で書いたのですが、それを踏まえて『どろろ』という作品に対しても思うことがありました。
『ラストオブアス2』ではとても悲惨な出来事が起こり、エンディングも大団円というわけではありませんでした。だからこそリアルで残酷な真実を描いていると私は感じました。
一方で『どろろ』のエンディングは対照的に、優しさに満ちた嘘を描き出していると私は感じました。
もし『どろろ』が『ラストオブアス2』のようなエンディングを迎えていたのだとしたら、あまりにもその悲しみは大きく、辛く、受け止めきれないものになるのでしょう。
どちらの方が正しいとか、間違っているとか、そういう話をしたいわけではありません。いわば好みの問題です。ただ、私が望んでいたのは『ラストオブアス2』のようなリアルさだったのだなと改めて思いました。
無意識にそういうリアルさを『どろろ』の最終回に対しても求めていて、その願いが叶わなかったというだけの話です。
もちろん嘘や優しさの存在は罪ではありませんし、決して間違いではありません。ある意味でそのようなものは希望であり、救いであり、願いとして必要なものです。それがなければ、現実世界に絶望してしまう人も多くいるのでしょう。
『ラストオブアス2』をプレイしていて、どうしても直視したくない出来事が訪れた時に「フィクションなんだから夢くらい見させてくれ!」と強く願うことがありました。
そして「そういう願いを最後に描いたのが『どろろ』の最終回なんだろうな」とも思いました。
実は百鬼丸が下した最後の決断は、『ラストオブアス2』の主人公のそれとよく似ています。でも百鬼丸の方は、そこまでの過程がぽっかりと抜け落ちているように感じるのです。
少し話は逸れますが、『林檎もぎれビーム!』というアニソンがあります。
一応、歌詞へのリンクも貼っておきますね。プライム会員ならAmazonミュージックで聴けるので、知らない方は良かったら聞いてみてください。
それで最近この曲を聞いていて私が思ったのは「その嘘は信じ続ければ、やがてその人にとっての真実になる」ということです。
世界は嘘と、優しさと、愛のお仕事と、マニュアルでできている。でも絶望の先には理想郷があると願い、信じ、歌い続ける人もいる。
もしかすると私の記事は、それらを否定しているようにも感じるかもしれません。ですが私も、絶望の先には希望があると信じているクチです。
現実は本当に残酷で救いはないのか?私は、そんなことはないと思います。失うことで得るものもあると、信じているからこういう記事が書けるのです。
だからこそ『どろろ』でそれを描いて欲しかったと願い、信じ、書き続けているのでしょう。
さらに追記:見送ること
とても素晴らしい解釈のコメントをいただきました。最後に出てきた百鬼丸は「どろろの心の中にいる姿」だというものです。
取り戻した肉体を得たまま、それでも他の全てを捨てて旅立つ。だとしたら、どろろに多くを語らず行ってしまったことに意味があります。彼女に全てを伝えてしまうと全部嘘になってしまうから。
だから百鬼丸は自らの意志で、そして希望の象徴である彼女を残して、これまでのことを清算するために旅立ったのでしょう。
随分と長いこと百鬼丸について考えてきましたが、ようやく私は彼の旅立ちを見送ることができたのだと思います。
一期のOPがとても好きです。
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