この物語のことを、「何のことだか分からない」「意味不明だ!」と思う方も多いのではないかと思います。
なぜかというとこの作品は、目に見えない「心」を描いた物語だからです。
だからもしも『ノルウェイの森』に少しでも興味を持った方は、どうか言葉に囚われず、心でこの物語を読んでみて欲しいと私は思います。
なぜ意味不明なのか?
この物語は、慰めのための物語なのだと思います。
そして『ノルウェイの森』は、自分と故人を慰めるためのレクイエムのような話だと考えています。
これだけだと何を言ってるのか分からないかもしれませんが、つまり「自分にとって親しい人が亡くなってとても悲しい」という個人的な話を描いているのではないでしょうか。
だからこの作品は、主人公のワタナベにとって、とても大切だった直子(なおこ) が亡くなってしまったことを弔うためのレクイエムなのだと思います。
でもあなたは、それを聞いて「なんのこっちゃ」と思うかもしれません。
この物語と似たような作品に、『ヤサシイワタシ』という漫画があります。
その他にも、最近で言うと米津玄師さんの『Lemon』の歌詞もそれに近いのではないかと思います。
これらの作品も『ノルウェイの森』と同じように、失うことの悲しみに焦点を当てていると感じます。
身近な人が亡くなってしまった時、その悲しみを本当に理解できるのは当事者だけです。しかし「大切な人を亡くしてしまった」という点においては、部外者である私にも理解することができます。
そのような個人的な話を、『ノルウェイの森』は描いているのだと思います。
物語のテーマ
そしてこれらの作品に共通しているテーマは、「大切な人を亡くした者がそれでも生きていくこと」なのだと思います。
でもそのテーマは、なかなか人には伝わりづらいものだと思います。
なぜなら人が亡くなることによって浮かんでくる感情は、きっと上手く言葉にできないからです。
そして人によっては、その手の物語を嫌ってしまうのも理解できます。
だって大抵その感情はとても辛いし、共感できなかったら他人の悲しみなんて極論ですがどうでもいいですよね。
だから、それを分かり合える人にだけは、共有できる「何か」がこの物語にあるのではないかと私は思います。
何を考察するのか
言葉にできない「何か」があるとしても、やっぱりそれを少しでも言葉にしてみたいと思って、この記事を書いています。
この物語は、全体的に抽象的な表現が多いのですが、その中でも3つの疑問について考えてみたいと思います。
これもあくまで一つの意見として、読んでみてくださいね。
ワタナベと直子の関係
この物語は、直子の精神が病に侵され、山奥の阿美寮という施設に入院し、亡くなるまでの過程を淡々と描いています。
その中で一番不思議なのが、主人公であるワタナベと直子の関係です。
ワタナベは直子と体の関係を持ちながらも、彼は同じ大学のミドリにも興味があるような素振りを見せます。
そして最初から最後まで、ワタナベはヒロインを助けるヒーローではなく、ごく普通の人間として描かれています。
それでもワタナベは、要領を得ない直子の話にも辛抱強く耳を傾けるし、誕生日にはケーキだって買ってくるし、何度も直子のために長い手紙を出したりします。
しかしそんな彼は、夜になると永沢(ながさわ)という先輩と女を引っ掛けて寝るし、ミドリとも関係を深めます。
この男は、本当に直子を救う気があるのだろうか?
これが初めてこの本を読んだ時の、私の正直な感想です。
一見ワタナベやこの物語は淡々としていて、感情の匂いを嗅ぎ取れません。
でも、その中でも一番感情を露わにしている人物はいます。それが直子です。
直子と「外の世界」
ワタナベは、何かを与えられるような人間ではありません。なぜなら彼は、いつもそこにいるだけだからです。
彼は何も与えない変わりに、自分も何かを求めたりはしないのです。
作中ではミドリも、ワタナベに対して「あなたは人に押し付けたりしない」というようなことを言っていました。
きっとワタナベのそばにいることは、とても心地良いのでしょう。でも、それ以上でもそれ以下でもないのです。
そういう人たちが閉じこもる阿美寮は、とても居心地の良い楽園なのだと思います。そこは傷つくこともないし、傷つけることもない優しい「中の世界」です。
そしてそうだ、これが外の世界なんだと思って哀しい気持ちになった。
ワタナベが直子の暮らす寮を訪ねた後、「直子の住む中の世界」と「外の世界」との違いを感じます。
直子とワタナベの違いは、そんな外の世界に順応できるかどうかだと思います。
ただ、ワタナベも「外の世界」に対して納得していません。なぜならワタナベの親友のかつて自害してしまったキズキや、過去にそのキズキと付き合っていた直子のように、ワタナベは繊細な人のことが好きだからだです。
だからワタナベと直子の関係も、キズキを失ったことへの傷の舐め合いのようなものなんじゃないかなと思います。
彼らはお互いを介してひっそりと身を寄せ合うことで、キズキの亡霊と喋るために一緒にいたのではないでしょうか。
キズキの亡霊とは、もちろん比喩表現です。上手く言葉が見つからないのですが、キズキとの思い出と言った方が良いような気もします。
つまりワタナベや直子は、キズキを通して「外の世界」と対話していたのではないでしょうか。
ここに、ワタナベと直子の関係のヒントがあるのではないかと思います。
キズキと直子
キズキという人間のことが語られるシーンは、本当に少ないです。その上、ワタナベから見るキズキと、直子が語るキズキの間には、大きな相違点があります。
キズキはワタナベの前では、自分の弱い部分を見せようとしませんでした。
とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。
そしてキズキはその本心を、直子にだけ打ち明けていたのです。
また、ワタナベは緑に対して、直子のことを放っておけないという理由に、
それがある種の人間としての責任であるということなんだ
と言い放ちます。それは、一体誰にとっての責任なのでしょうか?
恐らくそれは、キズキに対する責任なのだと私は思います。
直子はワタナベの中にキズキを見ていたし、ワタナベもまた直子の中にキズキを見ていたのです。
レイコと寝た理由
次にわからなかったのが、ワタナベが物語の終盤に、レイコと寝た理由です。
ワタナベはなぜレイコといとも簡単に寝てしまったのでしょうか?
まずはワタナベとレイコが行った、直子のお葬式について書いていきます。
直子のお葬式について
これから二人で直子のお葬式するのよ
そう言ってレイコは、亡くなった直子のためにギターで何曲もの歌を弾きます。
その中には、直子の好きなビートルズの『ノルウェイの森』も含まれていました。
そして最後に、ワタナベは直子の服を着たレイコと寝るのです。
ここで、一つ考えられることは、単に直子を亡くしたもの同士で傷を舐め合ったのかもしれないということです。
そしてもう一つは、直子の服を媒介に、ワタナベとレイコは亡くなった直子と対話していたのかもしれないということです。
話は変わりますが、この世で親しい者を亡くした感情を共有できるのは、同じ者を亡くした経験がある者だけだと思っています。
私が祖母を亡くした時に、法事の場でお坊さんからこういう言葉を聞きました。
「同じ境遇の者が集まり、念仏を唱えることによって、遺された者は亡くなった人と会話するんだよ」と。
そういう話にあまり熱心なわけではないのですが、なぜだかその言葉だけは今でも覚えています。
だからきっと、亡くなった者を弔うのは自分のためなんだと思います。
今はもういない人と繋がる儀式。それがワタナベとレイコにとっては、寝ることなんじゃないかなと思いました。
親しい誰かを亡くした時に本当にわかり合えるのは、故人を知り、故人を愛した者だけなのかもしれません。
レイコとワタナベ
そんなレイコとワタナベを「外の世界」に繋ぎとめるのは、直子です。なのでワタナベとレイコの関係は、直子のお葬式をもって終わりを迎えたのだと思います。
それはかつて、キズキを亡くしたワタナベと直子の関係にそっくりです。
わかり合えるのは、いつだって失ったもの同士だけです。
だからキズキを亡くした傷を癒すために、直子とワタナベは直子の誕生日の夜に寝たのではないかと思います。
そこには、直子への愛はありません。あるのはもうここにはいないキズキへの愛なのでしょう。
ミドリの最後の言葉
この物語は、ワタナベとミドリの会話で幕を閉じます。
このシーンの意味は一体何なのかを理解するためにも、まずはミドリという人間について考えてみます。
ミドリは「外の世界」の象徴であり、リアルな生(せい)を表しているのだと思います。
生きていくということは、直子のように「中の世界」である寮に閉じこもって野菜を育てたりすることではありません。
私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘトヘトになることはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。
彼女は直子のように繊細な感情を持ちながら、それでいて懸命に生きようとします。
ミドリは素直だけど、直子と違って上手くこの世界を生きていくための処世術を知っています。
幸か不幸か、ミドリにはそれができてしまうのです。
ワタナベのいる場所
あなた、今どこにいるの?
ワタナベが最後に電話をかけた場所は、本編中ではいつ・どこなのかが明言されていません。
もしかしたらレイコさんと別れた直後(映画はこれでした)なのかもしれないし、一年後かもしれないし、十数年後のドイツなのかもしれない。
でも私は、「どこでもないし、どこでもある」んじゃないかと思っています。
なぜならワタナベにとっては、それはいつでもどこでも良いからです。
冒頭でワタナベは37歳になっていますが、過去の回想をする際にミドリが一瞬も出てきません。
ミドリはワタナベに「私だけを見て」と言ったのに、思い出すのはいつまでも直子のことだけです。
ミドリとワタナベ
ワタナベにとってミドリは、「電話したらいつでも自分と外界を繋いでくれる存在」なんだろうと思います。
外の世界が嫌になった時に電話をすると、いつでもそこにいてくれる存在。
だから、決まった場所や時間なんてないような気がします。
もしかすると、あれは概念上のミドリなのかもしれません。
ワタナベとミドリは、きっとお互いを慰めあったりはしないのだろうと思います。
永遠に同じものを共有できないまま、ただずっとそこにいるだけの関係なのではないでしょうか。
この世界で生きる意味
私は時々、直子という人間のことを思い出します。生きていたけど、今はもういない直子という存在を。
亡くなった者は、いつまでも心から消えません。
ずっと生きている者の心に残り続けるし、時には「こちらにおいでよ」と手招きをしてきます。
「外の世界」は、直子が生きるにはあまりにも汚く、不公平で、残酷な世界でした。
でも、ワタナベやミドリや私は、そんな世界で今も生きています。
しかしこの世界で生きることには、一体どんな意味があるのでしょうか?
どうしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。
私は、ワタナベがこう言った気持ちがわかるような気がします。きっとワタナベにとって直子は、世界の希望そのものだったんだと思います。
もしも直子が生きていてくれたら、直子がこの世界で暮らしていけたら、直子と一緒にこの世界を生きていけたのなら、自分も生きていけるのではないか。
だからワタナベは、今もずっと、直子のいる「二つの世界の真ん中」にいるんじゃないかなと思います。
直子がこの世界を去ろうと決めたあの日は、とても晴れやかな気持ちだったのかもしれません。
でも最期に、彼女は泣いたのです。
きっとこの世界が、この世界で共に生きようと言ってくれたワタナベが、この世界で生きられない自分のことが、悲しくて泣いたのだと私は思います。
本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?
これからもずっと、私とワタナベは直子の面影を、世界の真ん中で探し続けるのだと思います。
- 作者:村上 春樹
- 発売日: 2004/09/15
- メディア: ペーパーバック