引き込まれる文章、耳に残る音楽、どこか不気味なグラフィック。
一見するとイラストは荒いドット絵、音は足りておらず、シナリオは淡白なように見えます。なのに、だから、惹きつけられる。すべての雰囲気が、抜群にたまらないのです。
この作品にはオリジナル版とリニューアル版が存在していますが、世界観や雰囲気を存分に感じたいのなら、オリジナル版をプレイすることをおすすめします。
ゲームについて
この物語は、主人公の祐介(ゆうすけ)が「クラスメイトの香奈子(かなこ)が授業中に突然発狂する」という事件を調査するのが目的です。
作中には、「狂気の扉」というワードが飛び交いますが、それは精神が崩壊してしまうということを表しています。そして香奈子は、「狂気の扉」を開いた者の象徴として扱われます。
香奈子が起こした事件は、深夜の学校で行われている乱行パーティへと繋がります。
ここでキーワードとなるのが「毒電波」です。事件の首謀者は「毒電波」によって、生徒達を操っているのでした。
そんな『雫』ですが、一部界隈では鬱ゲーもしくは電波ゲーと呼ばれています。
一般的に「鬱」と呼ばれるネガティブな感情は、見たくないものでたったり、目を背けたくなるようなものだと思います。
だからこそ漫画や小説といった娯楽作品では、あまりお目にかかれないようなテーマでもあります。
人間が必ず感じるネガティブな感情。キャラクター達はどう感じるのか、そしてどう向き合うのか。本作ではそいうものを見ることができます。
さて、『雫』の主人公は、作中でことあるごとに陰鬱で凄惨な妄想を繰り広げています。
僕はノートの上に小さな丸印を書き込む。その丸印は…世界を燃やしつくし、壊しつくす、新型爆弾の爆発だった。
この文章を読んだ時の、とんでもないゲームに出会ってしまったなぁという気持ちは、今でも忘れられません。
きっと終盤では、彼がどうしてこのような妄想を繰り広げるようになったのか、その過程がじっくりと描かれるんだろうと思っていました。しかし作中で描かれる感情は、あくまで彼の気持ちの表面の、ほんの少しだけなのです。
その原因としては、シナリオが基本的に事件について調べた当日の出来事しか描かれていない、ということにあると思います。
なのでプレイヤーが、各キャラクターごとのシナリオに出てくるエピソードや人物像をつなぎ合わせて補完して、物語を考察していくしかないのです。
そこで、各キャラクターのシナリオと人物像を考察することで、より物語を理解できるのではないかと思いました。
キャラクター考察
沙織(さおり)
バレー部に所属する、元気でおしゃべりでおちゃめな女の子。
正直、立場的にあまりストーリーに関わりがありません。そもそも事件との関係も、部活帰りにたまたま事件の集会現場を見たというだけです。
なので沙織は、狂気とは無縁の、希望と平穏の象徴として描かれています。普通のラブコメみたいな、ギャルゲーみたいな、そんな安心感を得られるのが沙織ルートですね。
ということでプレイする時は、彼女から攻略するといいかもしれません。
作中のテーマでもある「狂気の扉」について、沙織は独自の考えを述べます。
多分、普段生きてるあたしって心のないゾンビみたいなものでさ、こういうときだけ生き返るんだと思う。
「狂気の扉」とは、刺激だと沙織は言います。つまらない毎日を、面白いものにしたいのだと。人々が漫画や小説を読むのは、非現実を求めているからなのだと。
では、祐介にとっての「狂気の扉」は何なのでしょうか?
僕は世界の破滅を妄想することで、ほんのひとときだけ、このくだらない現実から逃避することができる。
祐介は、「狂気の扉」を開くということを、逃避と考えます。沙織とはまるで対照的ですね。
祐介にとって妄想だけが、そんなつまらない現実から逃れられる唯一の救いだったのです。
しかし沙織ルートのハッピーエンドでは、祐介は自ら「狂気の扉」を閉じることを選びます。
無声映画のような祐介の世界は、沙織によって色のある穏やかな世界へと変わりました。
退屈で、つまらなくて、死にそうで、狂いそうで、吐き捨てたくなるほど嫌いだった日常。だがそこには……確かな安らぎが存在した。
祐介は現実世界から逃げることをやめて、沙織と生きていくことを決意します。
あれほど「狂気の扉」を開きたがっていた祐介は、沙織との出会いによって、自らの価値観を変えてしまうのでした。
瑞穂(みずほ)
生徒会書記の、おとなしくて自分に自信がない女の子。でも、嫌な感じはしません。卑屈じゃないんだよね。わりと頑固です。
そして彼女は、事件の発端である香奈子の親友でもあります。
プレイヤーは「扉を開けた」あとの香奈子しか知らないので、彼女どういった人物だったかを推測するのに瑞穂シナリオが役立ちます。
…香奈子ちゃん…このオルゴールを指さしながら、ニコッと笑って…そのオルゴールの音が聞きたかったんだよ…って。…わ、私、すぐにありがとう…って言いたかった。…だ、だけど…涙で…何も言えなくて…それなのに…香奈子ちゃん…ずっと私に…「大丈夫?大丈夫?」って…
思い出のオルゴールを巡る、瑞穂と香奈子のエピソードです。
この話からわかることは「香奈子は優しくて明るい良い子」かつ、「二人はとても仲の良い親友」だったということですね。
そして祐介の「狂気の扉」ですが、この瑞穂ルートでも開かれることはありませんでした。
その扉にたどり着き、それを開くことが出来れば、この独りぽっちの世界からサヨナラできるということを…。その向こう側には永遠に終わることのない、麻薬のような悦楽が待っているということを…
このように考えていた祐介ですが、香奈子と瑞穂の関係を見て、自分の価値観が崩壊します。
ミズホ…ゴメン…ネ…ミズホ…ゴメン…ネ…
思い出のオルゴールの音色によって、少しだけ自我を取り戻した香奈子。しかしそれは壊れた機械のように、ただ同じ音声を繰り返すだけでした。
目の前の二人を見ているうちに、僕は、開きかけた「狂気の扉」が音を立てて閉じていくのを感じた。それは、これまでの価値観の崩壊でもあった。
沙織のハッピーエンドでも、瑞穂のハッピーエンドでも、祐介は「狂気の扉」を閉じます。
つまらない現実世界から逃避をしたかったが、祐介の価値観の崩壊によって「狂気の扉」を開くことはなかった。大まかな筋書きは同じです。
ただその違いは、価値観の崩壊の理由です。瑞穂ルートで祐介は、「逃避の先に何も得られるものはない」と悟るのでした。
拓也(たくや)
生徒会長でありながら毒電波を操り、香奈子を含む女子生徒を狂わせ、事件を起こした張本人。
ヒロインの一人である、瑠璃子の兄でもあります。ちなみにリニューアル版では、血の繋がりのない兄妹として扱われています。
作中では、拓也は「狂気の扉」を開いた人間として描かれています。そして香奈子の心を壊したことについて、彼はこう述べています。
…彼女自身辛そうだったし、いい加減に僕も迷惑だったから…心を壊してあげた。…それですべてがまるくおさまったんだ。もともと、玩具には心なんて必要なかったんだし…
拓也には、驚くほど悪意というものが存在していません。良く言うと、恐ろしいくらいに純粋なのです。ただただ自分の欲望に、忠実なのです。
僕はただ、玩具が欲しかったんだ。性の欲求を満たす為だけの奴隷のような玩具がね。
さて、バッドエンドの一つに「卒業式エンド」というものが存在します。
その内容は、生徒だけでなく教師や保護者を含む全員を毒電波によって操り、乱行させるというショッキングなエンディングです。
なぜ拓也は、そんなことをするのでしょうか?
拓也が「狂気の扉」を開いた理由は、過去にあった出来事が原因だと語られています。
月島兄妹は、幼い頃に両親を亡くし、叔父の元へ引き取られます。叔父は暴力を振るい、そして毎晩取っ替え引っ替えに女を連れ込みます。兄妹は二人きりで、それに耐えました。
瑠璃子を守らなければならない。そういう思いが強くなり、やがて瑠璃子を女として愛するようになります。
そして拓也は瑠璃子を犯すことで、「狂気の扉」を開くのでした。
祐介(ゆうすけ)
言わずもがな、主人公です。彼を語る上で外せないのが、「狂気の扉」です。
祐介はほとんどのエンディングで、自ら「狂気の扉」を開くことはありません。しかし一つだけ彼が「狂気の扉」を開く、「毒電波暴走エンド」というものがあります。
作中で「毒電波」は、あくまで自分の中の感情を増幅させるものとして描かれています。拓也の「毒電波」によって、祐介は瑠璃子を犯したいという衝動に駆られます。それは、かつての拓也と同じでした。
瑠璃子を犯すことによって、祐介は強力な電波を操る力を得ます。暴走した「毒電波」は、拓也だけでなく、沙織や瑞穂の精神までも崩壊させます。
翌朝、トースターでパンを焼きながら、祐介はテレビのニュースを付けます。そこには街中の人間の精神が狂ってしまう様子が流れていました。そこで祐介は大切なことに気が付きます。
トースターのコンセントが抜けているじゃないか。
そして祐介の「狂気の扉」は、開かれてしまったのでした。
ここでプレイヤーは初めて、「狂気の扉」を開けた後の世界を見ることができます。そこにはある意味平穏で、穏やかな日々が待っていたのでした。
しかしこのエンディングでも、まだ自ら「狂気の扉」を開いたとは言えません。彼が本当にそれを望んで開いのたかと問われれば、そうではないと私は答えます。
彼は、普通の男の子なんだと思います。確かに狂気に憧れる気持ちは、多少なりともあったと思います。そして同時に孤独もあった。
中二病といえばそれまでですが、でもそれは思春期の少年少女達が、等しく抱いている感情なのではないでしょうか。
どこにでもいる男の子。そしてヒロイン達もまた、どこにでもいる女の子なのです。
何かのきっかけで、人は簡単に狂気に堕ちてしまいます。それが、たまたま「毒電波」だったのです。
瑠璃子(るりこ)
月島拓也の妹であり、祐介の元クラスメイト。
突然屋上に現れた彼女は、口もきいたことのない祐介に向かって、開口一番にこう言います。
長瀬くんも…、私とおんなじよね?長瀬くんもできるんでしょ?電波の受信
わけのわからないことを言う人のことを電波だと表すことがありますが、その定義で言うと、瑠璃子はまさにメインヒロインでありながらも電波そのものです。
でも、同時に惹かれます。瑠璃子には、なぜだかとても不思議な魅力があるのです。
作中で瑠璃子を表現する、とても印象的な文章があります。
溶鉱炉の中の金属が、飴色になって溶け落ちるような赤。火花の赤。線香花火の赤。綺麗で、鈍い赤。この空の色は、瑠璃子さんに似ている。童女のようなあどけなさと、どろりとした狂気の二面性を持つ、そんな瑠璃子さんに。
とても美しい、でもそれなのにどこか不安になるような文章だと思います。
この時のBGMも、ノスタルジックな感じでとってもいいんですよね。聴いたことのない方は、ぜひ一度聴いてみることをおすすめします。
さて、拓也の妹である瑠璃子もまた、「狂気の扉」を開いた者として登場しています。
やがていつの頃からか僕は、この退屈な世界から色彩が失われてしまっていることに気付く。そんな中で、僕はひとりぽっちで泣いていた。消えちゃう、消えちゃうって、子供みたいに泣いていた。そして、…見知らぬ誰かに、助けを求めていた。
現実世界から逃避したかった祐介。それは、自分の存在を守るためでした。
長瀬ちゃんが…私を…呼んだの。…毎日、毎日、助けて、助けてって…、私を呼んでたから。だから、助けてあげようって思った。
彼女の言う電波とは、孤独を表しています。瑠璃子は一人で泣いていました。誰かここから助けてと、救いを求めていたのです。
そしてやはり、瑠璃子ルートでも、祐介は「狂気の扉」を開くことをやめます。
なぜなら、そこには瑠璃子がいないから。心を閉ざした色と音のない世界の中では、瑠璃子という存在を感じることができないからです。
これは沙織ルートでも同じですね。ただ、唯一の違いは、相手もそう思っていたということです。
…もっと、もっと、なにもかもがおんなじだから。心の中でいつも泣いているとこも、世界から消えちゃいそうなとこも、誰かに助けを求めているとこも…私とおんなじだから…
これはそういうシーンの最中のセリフなのですが、でもすごくプラトニックな言葉だと思います。
心と心の交流。それは時に恋と呼ばれたり、愛と呼ばれたりもします。
電波とは、心だったのです。
「電波、届いた?」の意味
良くも悪くも時代を感じるゲームですが、このような雰囲気を作ることのできるゲームというのは、あまりないと思います。
…ポツ。雫?…雫だ。雫が落ちた。涙の雫が…。雫はゆっくりと水面に落ち、ゆるやかな光の波紋を描いた。
「狂気の扉」は、人によって違います。でも、誰にも心の中に持っているのです。
そして「雫」とは、誰かの涙だと私は思います。その涙を電波に乗せて、みんな叫んでいるのです。
長瀬ちゃん。電波、届いた?
私はここにいるよ、って。