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おすすめ作品の感想と考察、時々コラム。

ただ祈ることに意味はあるのか?映画『すずめの戸締まり』ネタバレ感想

新海誠監督の映画『すずめの戸締まり』を、劇場で観てきました。

私の感想としては「すごく良かった」です。あまりにも良かったので、帰りに本屋で小説を買って読みました。

一体この映画の何が良かったのかを掘り下げるために、今回は映画の感想について書いてみたいと思います。

※以下、映画・小説・そして前作『天気の子』のネタバレを含みます。

テーマについて


この作品は映画特典の『新海誠本』や小説のあとがきからも分かるように、2011年3月11日に起きた東日本大震災をテーマに作られたものです。

恐らく監督自身があの震災で感じたことを整理するために、そしてそれを受け入れるために作られた鎮魂歌のようなものではないかと考えます。

そういう意味ではとても個人的なテーマですが、同時に「日本に生まれた多くの人が共感できるテーマ」にもなっているのだと思います。

だからこの映画について語るということは、最後には恐らく文化や宗教性などの話に行きつくのではないでしょうか。

それは非常にセンシティブなテーマなのでとてもこんなブログ記事で語れるような内容ではないのですが、なるべく噛み砕いて話せたらなと思います。(ただそんなに詳しくないので話半分でお願いします!わりと感覚で書いてます!)

必然的にこの記事は楽しい内容ではないので、もし読んでいて気分を害された方はどうか無理をせず画面を閉じてくださいね。

ストーリーについて


主人公である少女鈴芽(すずめ)が、青年の草太(そうた)と一緒に日本各地にある扉を閉めていくというストーリーになっています。

『すずめの戸締り』の物語の中では、皆から忘れ去られた場所に後ろ扉(うしろど)が現れます。

ちなみに後ろ戸とはコトバンクによると、

仏堂の背後の入口のこと


を指します。つまり宗教的な意味を持つ入口のことですね。

その扉は今私たちが住んでいる現世(うつしよ)と、死者の世界である常世(とこよ)と繋がっています。

そして後ろ戸が開くことで、中からヒミズというミミズのような化け物が現れてしまいます。

閉じ師とは


後ろ扉を閉めるのは、閉じ師である草太の仕事です。

作中で閉じ師について多くは語られませんが、

代々続くうちの家業なんだ。これからもずっと続ける。でも、それだけじゃ食っていけないよ。


と草太は言います。

恐らく閉じ師の仕事は、薄給もしくは無給なのだと思います。しかも閉じ師の仕事は、多くの人に認知されるものではありません。


では草太は教師になるという夢がありながら、なぜそんな仕事をしているのでしょうか?


そう考えた時に、「お金が貰えない仕事は果たしてやる意味のないものなのか?」という疑問が浮かんできます。

今は世界の大多数が、資本主義というルールによって成り立っています。

お金がないとご飯も食べられないので毎日頑張ってお金を稼いだり、中にはお金でお金を稼いだりする人もいます。

このルールの中では閉じ師の仕事は無価値です。ですがそのルールを度外視した時、「自分ができる仕事でみんなの役に立つこと」はとても価値のあるものだと思います。

ヒミズとは


ヒミズは漢字で「日不見」と書きます。goo辞書によると、

モグラ科の哺乳類。


とあるようにヒミズは日本に生息しているモグラの一種ですね。しかし作中では、

かけまくもかしこき日不見の神


と呼ばれています。ちなみに「かけまくも」は、恐れ多いというような意味です。

つまりヒミズはただのモグラではなく、畏怖するような神様として扱われています。

そして私はこのヒミズのことを、クトゥルフ神話に出てくる邪神と似ている存在だと思いました。

神様と災害について


突然ですが、私は最近クトゥルフ神話TRPGに関心があります。


www.kotoshinoefoo.net


これは宇宙的恐怖(コズミックホラー)をテーマにしたゲームです。

クトゥルフ神話という物語の中では、必ず巨大なクトゥルフ神話生物が無力な人々の前に現れます。それはあまりにも大きく、常識を超えていて、理解することはできません。

そんな人間の力では到底敵わないものが目の前に現れた時、人はどう対応するのでしょうか?

人々は宇宙よりも巨大な存在に打ちひしがれ、己の無力さを嘆き、そして最後には発狂してしまいます。


そしてそれは、まるで災害と向き合った人間のようだと私は思います。


つまり災害のような人の手には負えない出来事が起きた時、ちっぽけな人間はただ呆けることしかできないのです。


この2つの神に共通していることは、「世界の裏側に存在している神が災いをもたらす」ということです。


白痴の神が人を嘲笑うかのように、ただ気まぐれに世界をめちゃくちゃにしていく。どちらもそんな恐ろしさがあります。

目的も意志もなく、歪みが溜まれば噴き出し、ただ暴れ、土地を揺るがす。


草太がそう言ったように、ヒミズは後ろ戸から現れる気まぐれな神様です。

ですがその結果起こる現象は災害に近いです。つまり神様とは自然の暗喩、もしくは自然そのものなのではないかと思います。

神を恐れること


私は最近アメリカのホラー映画をよく観ますが、終盤では大体「相手が何であろうと戦う意思を見せて自分に打ち勝つ」というような流れが多いです。

ですが日本人の私の感覚からするとあんまりアメリカのホラー映画って怖くないし、「自分に打ち勝つ必要はないんじゃないか?」とも思います。

以前、「なぜアメリカのホラーは怖くないんだろう?」と思って調べたところ、以下のような記事を見つけました。


www.gentosha.jp



上記の記事によると、

ホラー作品は「文化的恐怖」の側面が強くなります


とあります。それは自身の国土を大きくしてきたこと、ひいては勝者の歴史にも繋がるのではないかと思います。つまり戦うことは反発や拒絶に近いのではないかと思います。

しかし反対に日本は敗者としての歴史を歩んできたので、恐怖を受け入れるという選択をしてきた国とも言えます。

私は同じようにクトゥルフ神話もあまり恐怖を感じないのですが、それもやはり文化の違いから来るものなのかなと思います。

信じていた唯一の神を失うことへの恐怖こそが、コズミックホラーの根源のような気がします。

ですが「信じていたものが信じられなくなったから自分を保てなくなる」という感覚は、八百万の神がいる日本人からするとピンと来づらいのかもしれません。


だから何かを受け入れるということは、とても日本人的な発想なのかもしれないと思います。


目の前にとてつもない何かが現れた時、戦うのではなくあるがままに受け入れる。

もちろんそれはどちらがいいかという話ではなく、歴史を積み重ねた結果であり、ただ物事に対する反応の違いということに過ぎません。

科学への信仰


しかし現代において、特に日本では神様を信じている人の数は少ないのではないかと思います。

「信仰している宗教は?」と尋ねると、多分ほとんどの方は「自分は無宗教だ」と言うのではないでしょうか。

ですが私は、そういう人たちは無宗教ではなく科学を信仰しているのではないかと思います。

最近読んだこころの最終講義 (新潮文庫)という本に、

これだけ科学が発達して、ボタン一つ押せばロケットが月に行っているでしょう。うちの息子を学校へ行かすボタンはどこにあるんですか


ということが書かれていました。これは不登校の子どもを持つ父親が、実際に言った言葉です。

こうやって文章で見るとおかしな話ですが、現代では上記の言葉と似たようなことが多く行われているのだと思います。

例えば休ませず社員を働かせ続けたり、気に入らない有名人を叩いて改心させようとしたり…

誰も人の心を操ることはできないはずなのに、人間を機械のように自由に動かせると思い込んでいるのかもしれません。


なぜかというと、人は神にもなれるのだと錯覚してしまったからではないでしょうか?


現代では自然や宇宙までも、何もかもが科学によって解明されてきました。最近では通信技術やAI分野も進化を遂げ、以前よりも「できないことは何もない」と感じることは多くなってきました。

ですがそれはただの錯覚です。人は神ではないし、神は人にはなれません。

同じように自然もコントロールできないし、ある意味で災害も受け入れることしかできないのだと思います。

受け入れること


受け入れなければならないのは地震かもしれないし、台風かもしれないし、あるいはなのかもしれません。

『すずめの戸締まり』の作中で、鈴芽は何度も「死は怖くない」と言いました。


しかしそんな鈴芽が唯一恐れたことは、草太を失うことでした。


作中で草太は、要石(かなめいし)になってしまいます。要石とは、災いを抑える神のことです。

草太は要石になることで、東京で起きるはずだった大震災を防ぐことができました。

それはつまり、草太の死を意味します。言い換えると、他者を失うことはとてもじゃないけど受け入れ難いことなのです。

諦めと受容の違い


受け入れるというのは、言葉で言うほど簡単なことではありません。


人はどんな悲しみにも抗えず、大きな痛みを伴いながら少しずつ時間をかけて傷を癒していくことしかできません。


似たようなテーマを描いた作品としては、『ラストオブアス2』がとても近いのかなと思います。


www.kotoshinoefoo.net


受け入れる過程で痛みを拒絶し、否定し、そしてなかったことにするというのは往々にしてよくある状態です。

私は『すずめの戸締まり』の中で描かれていたモブの群衆を、何も見ないようにしてなかったことにしている人たちだと思いました。

大災害の予兆である地震が起きても全く気に留めず日常に戻っていく姿は、受け入れているようで諦めているようにも感じられます。

鈴芽たちがボロボロの姿になって街を走っていても、まるで人々は心の後ろ戸を閉めるように見て見ぬふりをします。


しかしそれでも鈴芽と草太は後ろ戸と向き合い、忘れられた人々の声を聞き、神に祈り、鍵をかけて扉を閉めていきます


扉を閉めるということは、一見すると全てをなかったことにする行為のようにも感じられます。

しかし「全てをなかったことにする」のと「受け入れて祈る」というのは、似ているようで全く違うことだと思います。

天気の子について


だから私は前作の『天気の子』が公開された時、ラストの展開がどうしても納得できなかったです。


天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
Amazon


ヒロインを犠牲にしないと天候がめちゃくちゃになる世界で、それでも愛する人のために世界を犠牲にした主人公。


そのせいで東京が水浸しになっても「大丈夫だ!」というのは、なかったことにするのと同じだと思ったからです。


それから『すずめの戸締り』が公開されるまで「全然大丈夫ではない」とずっと感じていたので、新作を観に行くのはちょっと躊躇っていました。

またなかったことにされたらどうしようと思っていましたが、実際に『すずめの戸締り』を観てみるとそれは杞憂に終わりました。

祈りの意味


結局『すずめの戸締り』で描かれていることは、祈ることの大切さなのではないかと思います。

ですが祈るなんて馬鹿馬鹿しい、そんなことをして何になるんだろうという気持ちもあります。だって祈るだけじゃお金にならないし、それはご飯になってくれないからです。

私は過去に似たようなことを思いましたが、それは「念仏を唱えただけで極楽に行ける」という話を聞いた時です。

最初にそれを知った時はそんな上手い話があるもんかと思ったけど、映画を観終えた今ではこう思います。


祈りは願いであり、願いは希望であり、希望は明日であり、明日は生きることに繋がるのだと。


誰からも忘れ去られて廃れてしまった場所にある扉のように、目を閉じ祈ることで常世と繋がることができる。

そういう意味で黙祷があるのかもしれないし、念仏があるのかもしれません。それは諦めではなく、受け入れることなのだと思います。

草太はヒミズを封じるための最後の場面で、祈るように手を合わせました。

それでも私たちは願ってしまう。いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい!


人にできる仕事はとても少なく、ほとんどの出来事は神の領分にあります。でもそれでいいし、人が神になることはできません。

もしかするとこの世には神様なんていなくて、ただそこに宇宙や自然や生き物が存在しているだけなのかもしれません。


ですが文化や信仰、そして科学さえも、全ての歴史は人が生きた証です。


ただそれを思うこと、願うこと、祈ることだけでいいのです。今日を生きたいからこそ、人は神様を求めて祈るのかもしれません。

そしてその祈りはきっと明日に繋がるのだと、この映画では結論付けていました。

そのことを私はとても心強く思うし、だから私はこの作品がとても好きです。


アマプラで配信されましたね。ブルーレイやDVDも発売されたようです。まだ観ていない方はぜひチェックしてみてください。


ノベライズ版です。ほとんど映画の内容と同じでしたが、鈴芽の心情などが細かく描かれていました。

ドラえもんは地球滅亡を回避できたのか?映画『のび太の宝島』ネタバレ考察

ドラえもんの映画といえば、私の中では2004年以前の旧声優版のイメージがとても強いです。

そんな中、アマゾンプライムで新声優版である『のび太の宝島』が配信されていたので何気なく観てみたら、とても面白かったです。

しかし物語の中でいくつか気になる点が3つあったので、今回は私なりに考察してみました。

気になった3点の考察


子ども向けの作品において、こうした考察をするのは野暮なのではないかとも感じています。

しかし監督は『映画ドラえもん のび太の宝島』今井一暁監督インタビュー - メディア芸術カレントコンテンツにおいて、


大人も鑑賞に堪えるものにしていきたい


と発言していたので、きっとこの先品は「考察できる余地が与えられている=しっかりと物語が練りこまれている」のではないかと思いました。

なので更にこの物語を楽しむために、自分が気になった点を以下で考察してみます。

タイムパトロール隊はどこに?


物語の中に登場する海賊船は過去も未来も自由自在に行き来しながら財宝や地球のエネルギーを集めており、さらに船の中には「遺伝子の保存」のために様々な動物が保管されていました。

ドラえもんの世界観の中では、このような行為は違法なのではないかと思います。しかし劇中では一切タイムパトロール隊の姿が見当たりません。

このことから推測できるのは、「海賊船は建前として研究のために運行している」のではないかということです。

船長であるシルバーは海賊船を操縦していますが、元々は妻のフィオナの研究のために船が運行されていました。


つまりこの船は「世界的に優秀な科学者であるフィオナが、研究のために様々な認可を受けて運行していた」可能性があります。


つまり劇中において、シルバーはタイムパトロール隊から見逃されているのではなく、それを逆手に取り偽装して悪用しているのではないかと思いました。

地球滅亡の原因は?


地球滅亡に関する大事なキーワードとして、地球のエネルギーというものがあります。

ただのお船じゃないわ
地球の力を少しだけ分けてもらって
みんなが幸せになれるお船なの


フィオナがまだ生きていた頃、彼女は子ども達にこう説明しています。

この際、フィオナのデスクモニターに映っている映像には、船から地球の中心(コア)に向かって赤と青の2本の線が出ています。

理屈は不明ですが、恐らくこれは地球と船とを循環(もしくは再利用)するエネルギーシステムのようなものだと考えられます。

「やっぱり君はすごいよフィオナ!
まさに夢のエネルギーだ!」

「まってジョン まだ不完全だわ
地球磁場のデータが予測と違う」

「誤差の範囲じゃないのかい?」


フィオナが亡くなる前に、シルバーとフィオナはこのような会話をしていました。

まず地磁気観測所|基礎知識|Q&Aによると、「地球磁場があることで地球は宇宙線(宇宙からの高エネルギー粒子)や太陽風(プラズマ)の影響を受けずにすむ」ということが分かります。

しかし、もしこの地球磁場がなくなれば、生物の突然変異や絶滅を引き起こす可能性があります。そしてこの地球磁場は、遠い未来には必ずなくなると予測されています。

つまり「船が原因で地球滅亡が起こる」のではなく、「船を運用する(地球のエネルギーを利用する)と地球滅亡に近づく」のだと思います。

ですがフィオナはもちろん、地球のエネルギーを吸い尽くすために船を設計したのではありません。


彼女は地球と共生するために、「地球からエネルギーをもらい、かつ地球にエネルギーを与える船」を作ったのではないでしょうか。


しかしフィオナの計算では誤差が起きています。つまりこのまま船を運用し続けると「地球のエネルギーはいずれ枯渇し、地球滅亡の時期が早まる」ことが考えられます。

つまり船の運用をやめたとしても、遠い未来で必ず地球は滅亡する。それがこの映画の前提なのだと思います。

あと細かいところで気になったのは「なぜドラえもんとのび太は地球のエネルギーに直で触ったのに助かったのか」という点ですが、それは海賊船に乗り込む前にテキオー灯を浴びていたからあの程度で済んだということで…どうでしょう?

地球滅亡は回避できたのか?


結論からいうと、「滅亡を回避できた可能性は高い」のではないかと思います。

シルバーは2250年から2295年へタイムマシンを飛ばして未来を見ていました。つまり滅亡までのタイムリミットは、彼らが生きているであろう時代よりも45年先の未来であり、シルバーの子供であるフロックが大人になるまでです。

そしてフロックは物語の終盤、シルバーが組んだプログラムを打ち破るという描写がありました。その姿に、シルバーはフィオナの面影を見ます。

シルバーはフィオナが亡くなった後、彼女の意思を継ぐために研究を重ねました。しかし彼はそれを成し遂げることができず、出した結論が「地球を捨てて宇宙に暮らすノアの方舟計画」というものでした。


そんな父を超えたのが、彼の息子であるフロックです。


フロックなら、母や父さえもなし得なかったことができるのではないか。そんなことを思わせるような力が彼にはありました。

そのことから、「地球滅亡の未来は回避された可能性が高い」のではないかと思います。しかしあくまでこれは可能性であって、本当に回避できたかどうかはまた別問題だと思います。

フィオナの願いと地球の未来


地球のエネルギーを奪うことを止めたのび太たちに、シルバーは「なぜそこまでできるのか」と問いかけます。

地球のエネルギーを持っていかれたら困るから
それに 悲しいから
親子なのに…パパと争うなんて僕だったら悲しいから!


のび太のこの発言は、甘くて、優柔不断で、実現不可能な感情論のようにも思えます。

しかしのび太のこの意見こそが、フィオナの願いそのものなのではないでしょうか。

ねえ ジョン
この子たちには人の幸せを願い
人の苦しみを悲しめる
そんな人になってもらいたいわ


このフィオナの言葉は、映画『のび太の結婚前夜』で出てきたしずかの父のセリフとほとんど同じです。

しずかの父は、「のび太は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ」と言いました。


つまりフィオナは、自分の子ども達にのび太のような人になって欲しいと願っていたのです。


のび太がいたからこそ、フロックは強固なプログラムを突破することができました。

それは、「不可能なはずの地球滅亡の未来も変えられるかもしれない」という示唆なのではないかと思います。

この子たちは私たちの宝物
子どもたちの未来を頼むわね


地球を、子どもたちを、人々を、全ての未来を守ること。それがフィオナの願いだったのです。

宝物…


「ノアの方舟計画」が失敗し、フィオナの言葉を思い出したシルバーは、崩れた壁から見える景色に目を奪われます。

木々が生い茂り、鳥がいて、光に溢れ、自然がある世界。それは紛れもなく、地球にいたからこそ見ることができた光景です。

フィオナや子ども達がいた、あの頃の自宅にある植物庭園のように美しい景色。だからこそシルバーは心を取り戻したのかもしれません。

「ごめんなさい
父さんが苦しんでるのを分かってたのに
寂しくて」

「フロック セーラ
家に帰ろう」


フロックは家出をしていました。それでものび太達と出会うことで人の痛みが理解できるようになり、成長することができました。

そしてシルバーもまた、のび太達と出会うことで心と家族を取り戻したのです。

「君たちはまだ何もわからない子供だ
犠牲を払わずに守れるものなどない!」

「僕たちはまだ子供だよ
分かっていないことだらけだよ
でも 大人は絶対に間違えないの?
僕たちが大事にしたいと思うことは
そんなに間違っているの!?」


今の地球環境問題のことを考えると、正解は誰にも分かりません。

いつか必ず地球滅亡の日は訪れます。フィオナも、シルバーも、フロックも、のび太も、全員が誰にも解けない難問(クイズ)に挑んでいるのです。

それでもフィオナが望んだのは、のび太が望んだのは、「家族みんなの幸せ」でした。

そして最後には家出をしていたのび太も家(=いつもの日常)に帰り、お父さんから「宝島」の小説を託されるのです。

感想


私は以前『天気の子』の映画を観ましたが、『のび太の宝島』と扱っているテーマは同じなのではないかと思いました。


共通しているのは、「未来は大丈夫だよ」ということです。


少しだけ違うのは、『天気の子』は『君の名は。』からの還元…「僕自身の実感や時代の気分をエンターテインメントに」新海誠監督インタビュー | ダ・ヴィンチニュースにもあるように、『天気の子』は「世界は救えない(救わなくていい)」という結末だという点です。

それは、かつてのシルバーのような価値観で作られている、とも言い換えることができます。

そして『のび太の宝島』では、「世界は救える(それでも救いたい)」という結末だということです。これは反対に、のび太の価値観ですね。

もちろん、それらには正解も不正解もありません。

それで地球が壊れてしまってもいいの?
自分たちだけが助かればいいの?


ドラえもんは劇中で、こう言いました。しかし、ドラえもんやのび太達は必ずしも正義の存在ではありません。なぜならそれは、ただ一つの意見に過ぎないからです。

「またいつか 必ず!」
「未来を頼んだぜ!」
「フロックならできるよ!」


ラストのジャイアンやスネ夫たちの言葉は、製作者からのメッセージでもあるのではないかと思います。

みんなで協力して、地球と暮らしていくことを模索する。それは地球だけじゃなく、人と人との関係でも同じです。

綺麗事かもしれませんが、私はこのメッセージを教えてくれた『のび太の宝島』がとても好きです。

子どもたちに未来を託すこと、未来を信じること。この心を忘れない限りはきっと大丈夫だよ、と言われたような気がしました。



挿入歌の『ここにいないあなたへ』もとてもよかったです。間違いなく子どもも大人も楽しめる名作だと思います。


脚本家の川村元気さんがノベライズ版を書いてます。川村さんが『天気の子』を企画したと知って驚きました。

プライム配信について

『のび太の宝島』を無料で観るには、Amazonプライム会員になる必要があります。

プライム会員は初回30日間無料で試すこともできるので、気に入らなければすぐに抜けても大丈夫です。定期的に無料配信ラインナップは変わるので注意!

プライム会員ならAmazonミュージックで星野源さんの『ドラえもん』も聴けます。最近ずっとリピートしてます。

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仕事に疲れた大人に刺さるのはなぜか?映画『ラヂオの時間』ネタバレ感想

私は今まで三谷幸喜監督の作品を一度も観たことがなかったのですが、ようやくこの『ラヂオの時間』を初めて視聴することができました。

社会人としてどこかで働いたことのある人ならば、この映画を観てその時の悔しさや悲しさが蘇ってくるかもしれません。私もその内の一人でした。


「仕事って一体何だろう?」


そんな風に思わせる『ラヂオの時間』について、感想を書きたいと思います。

仕事って何だ?


私は以前、詳しくは言えませんがある会社でものを作る仕事をしていました。

しかし私がその時に作ったものは、許可もなく知らない間に手を加えられ、最後に市場に出たものは「私の作品」とは呼べなくなるような代物でした。


その時の私は、とても悔しく、とても悲しく、そしてとても怒りました。


しかしその怒りは誰にもぶつけることはできず、「どうして私はこんなものを作ってしまったんだろう」と一人で後悔し、様々な理由もあってその仕事は辞めてしまいました。

みなさんの都合であたしの本寄ってたかってめちゃくちゃにしといて、よくそんなことが言えますね!


脚本家の鈴木みやこは映画の終盤、スタッフや演者に向かってそう叫びます。私はこんな風には叫べなかったけど、まさに彼女の叫びは私の心そのものだと思いました。


仕事って、一体何なんだろう?


私は今まで、ずっとこのことばかりを考え続けてきました。職を変えても、いつも心のどこかで同じ問いかけがぐるぐると回り続けていました。

どうして会社は「私の作品」をめちゃくちゃにするのだろう。それならいっそ「私」という存在なんて、この世に必要ないんじゃないか。

人によっては、私のそんな考えは甘っちょろいと叱咤されるのだろうと思います。もちろんそんなことは分かっているけど、当時の若い私には、そして今でもそれが、どうしても許せなかったのです。

だからこそ私は、この映画の鈴木みやこという登場人物に、苦しいほど自分を重ねてしまいました。

みんな自分勝手だ


みやこの脚本は、当初「平凡な主婦が熱海で漁師と駆け落ちする愛の物語」というものでした。

しかしキャストの都合やスポンサーの都合により、最終的に「女弁護士がシカゴで宇宙飛行士の男と出会うが最後に自立を選び取る物語」になってしまったのです。

生放送のラジオに間にあわせるために、即興で書き換えられていく物語。

そして脚本内の「平凡な主婦」である律子はメアリー・ジェーンに、「漁師」の寅造はドナルド・マクドナルドへと名前が変更されてしまいます。

ここにいるやつらは、誰も良いものなんて作ろうと思っちゃいない。


ディレクターの工藤は、脚本家のみやこに対してそう言います。

プロデューサーはラジオが無事終了させることを、編成は特にラジオに思い入れがないことを、そして自分は与えられた仕事をこなすことしか考えていないということを。

そして脚本家のみやこでさえも、実は脚本の「平凡な主婦」に自分を重ね合わせていたということが分かります。


一体何のために、このラジオドラマは放送されているのだろう?


誰のためのドラマなのか、何のための放送なのか。そんなことも分からなくなるままドラマは迷走に迷走を重ね、ついにみやこはスタジオに立てこもり、抗議をします。

だったら…最後にあたしの名前を呼ぶのやめてください!あたしの本じゃないって言ってください!


みやこの叫びに、プロデューサーの牛島はこう返します。

あんた何も分かっちゃいない。我々がいつも自分の名前を呼ばれるのを満足して聞いてると思ってるんですか!


妥協をするのは責任があるからだと、どんなにひどい作品でも逃げることはできないのだと、牛島は叫びました。

シナリオの行方


みやこの抗議も虚しく、ラジオの脚本はラストシーンさえも作り変えられ、もはや全く原型がない状態になってしまいます。

私良いです。何を変えられてもセリフが変わっても設定が変わっても、それはあたしの力不足なんですから。

でもそれはダメなんです。律子は寅造と結ばれないとダメなんです!


ディレクターの工藤はそんなみやこの悲痛な声を聞き、牛島に「ラストシーンを元のシナリオに戻す」よう頼みます。

牛島さん、これ以上変えたらあの人の本じゃなくなる。俺たちにそこまでする権利はない。もうよしましょうよ。


それでも牛島の考えは変わりません。そこで工藤は周囲の反対を押し切り、強引に「責任は自分一人で取る」と行動に移します。

現実の世界に、会社の中に、こんな人はきっといません。めちゃくちゃになってしまった作品を、最後にどうしても満足のできる、納得のいくものにしたい。

雇われの身でそう思って行動できる人は、一体どのくらいいるのだろう?上司に楯突いてまで行動できる人が、どのくらいいるのだろう?

工藤の行動の結果、スタッフやキャストの協力もあり、無事にみやこが望んだ「ラストシーン」へと戻すことができました。律子はメアリーのままだし、寅造はドナルドのままだけど、それでも二人は結ばれたのです。

私は観ていて、この最後の展開はとても非現実的だと思いました。でも同時に、それで救われた自分も確かにいました。

満足できない作品との付き合い方


作り手側ではなくとも、受け取る側として「これは満足できないな…」と思う作品に出会うこともあるかと思います。

私も最近そのような作品に出会うことがあり、それらとどのように接したら良いのかを、ずっと考え続けていました。


なぜこの作品が生まれてしまったのだろう?これは一体、誰の責任なんだろう?


ふと、そんな風に考えてしまうこともあります。でも、もしかするとそれは「この映画のような状況だったのかもしれないな」と、そんな風にも思います。

我々は信じている。いつかはそれでも満足いくものができるはずだ。その作品に関わった全ての人と、それを聴いた全ての人が満足できるものが。

ただ、今回はそうじゃなかった。それだけのことです!


この牛島の叫びは、果たして作り手側の怠慢なのでしょうか?それとも、努力の結果なのでしょうか?

全てを受け入れて「どんなものでも満足だ!」と心を押し殺すのもおかしな話だと思うし、かといって全てを自分の思い通りにしようと作り変えるのも無理な話です。

作り手ができること、そして受け取る側ができること。それはきっと、作り続けることしか方法はないのでしょう。そしてまた、信じて受け取り続けるしか方法はないのでしょう。

大人に刺さる理由


仕事をするということは、何かを妥協し、何かを犠牲にすることなのかもしれません。

「工藤。俺は時々虚しくなる。何のためにこんなことやってるんだ。みんなに頭下げて、みんなに気を遣って……何がやりたいんだ俺は!」

「自分で言ってたじゃないですか。いつかみんなが満足するものを作るんだって」


映画のラストシーンで、牛島と工藤はこんな会話をします。そして最後に、スタジオに駆けつけたラジオドラマの視聴者が、「あのドラマよかったよ」と涙を流します。

この映画は、形は違えども同じような経験をしたことがある人たちのための作品なのではないかと思います。

今も前線で何かを作り続けている人や、過去に何かを作っていた人、そしてそれを受け取り続けている人のための物語。


だからこそ、一度でも社会に接したことのある人は、この映画が刺さってしまうのかもしれません。


時に裏切られても、時に傷ついても、やっぱりもの作りはやめられないし、誰かのものを受け取ることもやめられません。

だからこうして私は、ブログに書き込んでしまうのでしょう。これからもきっと、様々な作品を楽しもうとするのでしょう。



ラヂオの時間

ラヂオの時間

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
その後何作か監督の作品を観ましたが、やっぱりラヂオの時間が一番好きです。

プライム配信について

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プライム会員は初回30日間無料で試すこともできるので、気に入らなければすぐに抜けても大丈夫です。定期的に無料配信ラインナップは変わるので注意!

詳細は、以下のページから確認してみてくださいね。


なぜアマゾンズ完結編に落胆したのか?映画『最後ノ審判』ネタバレ感想

最近になって初めて、『仮面ライダーアマゾンズ』のシーズン1とシーズン2を全話視聴しました。

アマゾンズのシーズンはどちらも素晴らしかったので、すぐに完結編である『最後ノ審判』も視聴しました。しかし私はこの映画を観終えた後、非常に落胆しました。

なぜ私はこの映画が気に入らなかったのか?今回は、それを踏まえての感想を書きたいと思います。

シーズン1と2について


アマゾンズは、「生きることの痛み」をテーマにした作品だと私は思います。

このシリーズは初期の平成ライダーのテイスト(クウガや龍騎など)を持ちながら、それら以上にテーマを掘り下げています。


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人間でありながらもアマゾンの遺伝子を持った仁(じん)
アマゾンでありながらも人間の遺伝子を持った悠(はるか)
アマゾンと人間との間に産まれた千翼(ちひろ)

主役の彼らだけではなく、その周囲の人間やアマゾン達にもそれぞれのドラマがあります。

時には残酷に、時には凄惨に、時には無慈悲に。生きるために戦い、生きるために喰う。影が光を浮かび上がらせるように、死が生を強烈に実感させます。

なんで俺たちは生きてちゃ駄目なんだ!


シーズン2の主人公である千翼は、作中でこう言います。

そして千翼以外の人間やアマゾンも、誰もが苦しみながらそれでも懸命に踠き、生きようとする。

その姿に私は感動したし、それは刹那的に生きる彼らだからこそできたのだろうと思います。

前提として、私はそんな『アマゾンズ』で描かれたキャラクター達が好きでした。

なぜ落胆したのか?


しかし映画では、過去シーズンのような感動はありませんでした。

そしてそれを単純に「つまらない」とか「合わなかった」などという言葉で片付けるには、あまりにも前作の存在が大きすぎたのです。

私が『最後ノ審判』という映画の何に対して落胆したのか。その感情を理解するためにも、順番に一つずつ書き出してみたいと思います。

過去シーズンの焼き直し


映画の中で、仁は養護施設「切子聖園(きりこせいえん)」の園長である御堂(みどう)により捕らえられ、監禁させられます。

御堂は仁の体からアマゾン細胞を抜き取り、養護施設の真の目的である「アマゾン牧場」を作るために、人工アマゾンの培養をしていました。


しかしこの流れは、シーズン1とシーズン2ですでに行われたものです。


人間がアマゾンを食べるために「アマゾン牧場」を作るという設定こそありませんでしたが、「人間に擬態したアマゾンを生み出す」ということはシリーズの一番最初に描かれています。

シーズン1では「トラロック」という作戦により4000体もの培養されたアマゾンを大幅に減らし、さらにシーズン2では全滅に至ります。

あれだけの時間を費やしてその結末を描いてきたのにも関わらず、この映画でもまた同じテーマを描いていました。

仁はシーズン1でアマゾンを「自分の子ども」と言いながらも始末し、何よりシーズン2では自らの子どもである千翼やその母親である七羽(ななは)を、自分の手で葬っています。


そんな仁に、なぜまた自らの子どもを産み、始末させる必要があるのでしょうか?


乗り越えた試練をもう一度繰り返しても、仁が仁である限り、結末に変わりようがありません。

むしろ結果がわかっている分、一視聴者の私からすると、ある種拷問にも近いと言えます。この作品を通して、私はそういう辛さを感じたい訳ではありません。

さらにもう一人の主人公である悠も、シリーズを通して「迷い」を断ち切りました。

守りたいものを守って狩りたいものを狩る。

そのために戦います!


人間とアマゾンの間で揺れ、どちらを守るかを常に迷い続けていた悠は、シーズン1で決心します。


それなのになぜ、映画でまた悠に「守ること」を迷わせる必要があるのでしょうか?


誰だって心があれば、人もアマゾンも迷うし、立ち止まるし、挫けることもあります。

もちろんもう一度迷ってもいいのですが、それならなぜ「もう一度迷うことへの苦悩」までもセットで描かないのでしょうか。

繰り返しになりますが、形を変えて同じ悩みを抱かせても辛いだけです。

過去を踏まえて、そして過去を超えて成長したキャラクターを見ることができなければ、それは拷問に近いのだと思います。

キャラクターの退化


先ほどの仁や悠と同じなのですが、登場するキャラクターのほとんどに「過去シーズンを踏まえて生きてきた結果」が私には見受けられませんでした。

むしろ同じことを繰り返している分、キャラクターが退化、もしくは退行しているようにも感じます。

この映画を観ていて強く思ったのは、「過去シーズンの焼き直し」ということですが、それは裏を返せば原点回帰とも言えます。

原点回帰も悪くはありませんし、様式美もコンテンツによっては素晴らしいものになり得ます。繰り返し同じテーマを伝え続けることは、それはそれで価値があります。

しかし私は、アマゾンズはそういう作品ではないと思っていました。私はアマゾンズという作品に対して、キャラクターの心情が「変化し続けること」に価値を見出していたのです。


つまり落胆した理由は、「勝手に期待していたのに裏切られた」ということに尽きます。


信頼というのは恐ろしいことです。私は気づかない内に、この作品だけはそれを裏切らないだろうと信じていたのです。

受け入れざるを得ない史実


『最後ノ審判』で私が一番残念に思ったのは、これが「史実」だということです。

例えばよくあるライダーや戦隊のお祭り映画のようなノリで製作されたのなら、ifを描いたパラレルワールドの設定なら、少なくともここまで落胆はしなかったでしょう。しかし、物語は進んでしまいました。

主要人物である仁は亡くなったので、どうあがいても文字通り「完結」させられてしまったのです。

私はシナリオや設定の粗探しをしたくないので、そういう部分については触れません。でも、キャラクターの心情だけは捻じ曲げて欲しくなかった。


シーズン1やシーズン2を通して描かれた彼らの「生き様」を否定されることは、私にとってオーバーキルにも等しい行為です。


シーズン2のラストで千翼と、彼が愛した少女イユが撃たれているのを見ていた裕樹(ひろき)のように言うと「もういいだろ!?」です。

目を覆いたいのに、目の前で銃弾を浴びせられる姿を見せつけられる。見なければいいのにそれでも見てしまうのは、「それでも最後まで見届けたいから」なのだと思います。

私は仁というキャラクターが亡くなることに対しては、何の不満もありません。問題なのはその「生き様」です。

「アマゾン達を狩るまで終われない」と言っていた仁が、果たしてアマゾンを残して逝く際に笑顔になれるのでしょうか?

シーズン2のラストで大切な人である美月(みづき)に「生きて」と言われた悠が、果たして自らその命を放棄することを選ぼうとするのでしょうか?

何のために、あれだけの時間を費やして七羽や千翼やイユは亡くなったのか。なぜ悠は千翼を自らの手で葬った後、もう一度生きることを願ったのか。そればかりが頭をよぎります。

シーズン2でイユの父親は、優しさから千翼と七羽を救いました。しかしそのせいで彼はアマゾンになり、その結果自らの子どもであるイユを喰らうことになりました。

この映画は、まさにそんなイユの父親と同じようなことをしたのだと私は思います。仁が最期に七羽の幻影を見て安らかに逝けたことは、ある意味では優しさであり、救いなのでしょう。しかしそれは偽物の優しさです。


なぜなら今まで散々シーズン1とシーズン2で描いてきたように、その優しさの最後には必ず大きな代償が支払われると知っているからです。


そしてこの映画がついた嘘の代償は、この作品を信じて完結編を観た私の「複雑な感情」なのかもしれません。

悠が仁を倒して生き残るというエンディングにするのならば、仁は最後まで足掻いて悔し涙を流しながら逝って欲しかったし、悠はそれを受けて決して自らの命を放棄するという選択を取らないまま気高く旅立って欲しかったと私は思います。

もしくは仁が悠を葬った後、仁も自らの命に終止符を打ち、その最後の最後に微笑んで欲しかった。そう強く思います。

期待を裏切られることの痛み


この記事を書くか、私は随分迷いました。なぜなら今までも、この作品のように最後で裏切られた(と感じた)経験がいくつかあるからです。

私はその度に迷い、記事を削除し、心の中に閉じ込めて「なかったこと」にしようとしましたが、それは消えずにずっと残り続けています。それでも同時に、私は誰かを傷つけるために筆を取りたくないとも思っています。

しかし傷ついた自分の心は、一体どう癒せばいいのでしょうか?もしかすると、きっとそれは書くことでしか癒されないのかもしれません。

もしこの作品に落胆した人がこの世にいるのならば、私はあなたのためにもこの記事を書いています。そして同時にこの作品が好きだという方も、スタッフに対する否定もしたくはないのです。

様々なことを考える中で、最近このような記事を読みました。


カレー沢先生、「公式と解釈違い」のモヤモヤをどう解消すればいいでしょうか?|カレー沢薫のワクワクお悩み相談室 カレー沢薫(かれーざわ・かおる)

追記:リンク先が消えてました!「公式と自分の解釈が違う時はどうすればいいか?」というような内容でした。(追記終了)


上記の記事で書かれているように、今回の出来事もまさに「公式との解釈違い」なのかもしれません。

自分が気に入らない作品について、どこが気に入らないのかを書き連ねるということは、自分で自分を痛めつける行為と似ています。ですがまさにそれは、人を喰わねば生きられないアマゾン達のようだとも思います。

きっとそれもひっくるめて、この作品は「生きることの痛み」を描いたのだと思い、自らを納得させるしかないのでしょう。徹底してシリーズで描かれた「生きることの痛み」は、皮肉にもこの『最後ノ審判』の存在でより強固なものとなりました。

アマゾンズという作品が好きで、その完結編を楽しみにしていた。そしてその期待が自分の中で膨れ上がり、希望通りにならなかった。つまり駄々をこねている子どもと同じです。なぜ落胆したのか?それは誰のせいでもなく、紛れもなく私自身の問題です。

繰り返しになりますがこの記事には、この作品を好きな人や、作った人のことを乏しめようとする意図はありません。

ただ一人の人間が、哀しみを背負い、泣きながらこの文章を書いているだけなのです。



シーズン1とシーズン2は本当に大好きです。だからこそ彼らの最期は悲しかったけど、そこまで思えるほどの作品に出会えたことは嬉しいです。

プライム配信について

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なぜ犯人は最後に笑ったのか?映画『砂の器』ネタバレ感想

『砂の器』という名前は聞いたことがあるけど、観たことはないという人は多いかと思います。

ただのミステリー映画なのに、なぜこの作品は現代まで支持され続けているのか?

今回は、この『砂の器』の映画を初めて観た感想を書いてみます。

生まれる前の映画を観るということ


『砂の器』は、「親子の話」ということと「何度もリメイクされるほど有名な作品」ということしか知りませんでした。

そんな状態で、たまたまプライムビデオにあった1974年に公開された映画を観てみました。

1974年というと今からもう45年前の映画で、原作に至っては約60年前のものです。


正直言って古い作品に対しては、難解で退屈なイメージがあります。


私は20代後半なのですが、例えば教科書に載っている古典や純文学は、漫画やアニメなどと比べると単調に思えてしまいます。

だからこの映画も序盤は淡々としているように感じて、「何がそんなに面白いのだろう?」と思っていました。


ある刑事が、とある事件についての真相を探る。


文字にするとあまりにも単純で拍子抜けしますが、内容はたったこれだけです。

映画の尺は約2時間ですが、その前半の1時間はずっと捜査が続きます。

話が大きく動くのは後半の1時間を切ってからですが、それでもある病気についての理解がないと物語を理解することは難しいです。

私はその知識をあまり持っていなかったので、最後に唐突に出てくる劇中のテロップで初めてそれを理解しました。

ハンセン氏病は医学の進歩で
特効薬もあって
現在では完全に回復し
社会復帰が続いている

それをこばむものは
まだ根強く残っている
非科学的な偏見と差別のみで

本浦千代吉のような患者は
もうどこにもいない


ああ、あのお父さんはハンセン病だったんだ……

そのテロップが流れるまで、私は犯人の動機がちっとも分からなかったのです。

犯人の動機について


犯人は、音楽家の和賀(わが)という男です。

しかし未来を約束された天才音楽家の和賀には、暗い過去がありました。

幼い頃に父がハンセン病にかかり、差別から逃げるようにして親子は放浪の旅を続けていたのです。

そこに言葉はなく、ただ映像と音楽のみが流れるシーンで、それらは語られます。

事件を捜査し続けていた刑事の今西(いまにし)は、こう言います。

この親と子がどのような旅を続けたのか。

私はただ想像するだけで、それはこの二人にしかわかりません。


それは、私たち視聴者にとっても同じことなのではないでしょうか?

親子の間にどんな物語があったのかなんて、その親子にしか分かるはずがないのです。

今西のように、世間でどんな事件が起きたって、私たちに分かるのはごくわずかな証拠の断片のみです。

和賀の動機がいまいちピンとこないのも、そのせいなのかなと思います。


どれだけ言葉にしたって、当事者にしかわからない苦しみがある。


その苦しみの断片を感じることができるのが、どうしても「子どもを産みたい」と願う愛人に、和賀が徹底して「子どもを産むな」と冷酷に伝えるシーンです。

「駄目だ。子どもだけは絶対に産むな」
「あたしが一人で産んで、一人で育てる」
「その子どもには父親がいないんだぞ」
「でもあなたよりは幸せだわ!」
「……幸せ?」


父親がいない悲しみ、奪われた辛さ、憎しみ、苦しみ、怒り。

それらを糧にして、和賀は作品を作っていたような気がします。

だから和賀は、自分と父の仲を引き裂いた男である三木(みき)を手にかけたのではないでしょうか?


なぜなら彼は、三木に幸せを奪われたも同然なのだから。


三木は持ち前の正義感の強さから、子供時代の和賀と父親を引き離します。

病気が移るといけないからと、子どもの未来のためだと、三木は父親に諭すのです。

しかし父を愛していたからこそ、親子の幸せを奪った三木を恨んだのではないかと私は思います。

秀夫は今どこにいるんだ。死ぬまでに会いたい。一目だけでもいいから会いたい。


三木に宛てた手紙に、父はこう書き綴ります。

父はどうしても、息子に会いたかった。

でも息子は、父に会うことよりも父を奪われた悲しみの方が勝ったのかもしれません。

なぜ砂の器というタイトルなのか?


子どもが一生懸命に作っても、あっけなく崩れてしまう砂でできた器。

このシーンは、作中で象徴的な場面として数回ほど映ります。

しかし──
旅の形はどのように変っても
親と子の“宿命”だけは永遠のものである


この作品が伝えたいのは事件の真相でも、病気についての理解を深めることでもなく、あくまで親子の宿命なのだと思います。

ではなぜ、この作品のタイトルは『宿命』ではなく『砂の器』なのでしょうか?

いつまでもそのままの形ではいられない、儚く脆い砂の器。

もしかするとそんな砂の器を、あの親子に見立てているのかなと思いました。

「今西さん。和賀は父親に会いたかったんでしょうね?」

「そんなことは決まっとる。今彼は父親に会ってる。彼にはもう音楽、音楽の中でしか父親に会えないんだ」


失われてしまった子供時代の親子関係をなぞるように、和賀はただピアノを演奏することしかできません。

現在の父親とは会えても、和賀はもう子供時代の父親とは、崩れてしまった砂の器のように二度と会えないのです。

だからこそ、そうなってしまったのは三木のせいだと、和賀は憎んだのかもしれません。


そして和賀は、最後に『宿命』が完成したことを満面の笑みで喜んだのです。


父が病気になり離れ離れになったのも宿命。そんな過去を知る三木と再会したのもまた宿命。彼が作った曲のタイトルもまた、『宿命』です。

和賀が三木を手にかけることで、『宿命』は完成しました。恐らく彼はもう曲を作らないし、作れないのでしょう。

そうすることで、ようやく彼は父の元へと帰れたのかもしれません。きっと、たくさんのことから解放されたのです。



砂の器 デジタルリマスター版

砂の器 デジタルリマスター版

  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: Prime Video
序盤は展開が遅く感じますが、後半になると盛り上がります。劇中歌の『宿命』はとても良い曲です。

プライム配信について

『砂の器』を無料で観るには、Amazonプライム会員になる必要があります。

プライム会員は初回30日間無料で試すこともできるので、気に入らなければすぐに抜けても大丈夫です。定期的に無料配信ラインナップは変わるので注意!

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